ハワイはもともと文字を持たない口承文化。フラダンサーは自然現象や歴史の語り部として曲の意味を体全体で表現し、代々受け継いできたといいます。有島さんも、フラにのめり込むうちに、自然への感謝だけでなくハワイの歴史や文化への興味もわいてきたのだとか。そして、ついに憧れのダンサーを見つけ、ハワイまで追いかけていくことに。クムフラ(フラ師匠)に認められ、日本校を開くまでを聞きます。
――ハワイのクムフラとはどうやって出会ったのですか? 会社員の傍ら、タヒチアンダンサーとして私が全国ツアーに参加していたとき、ハワイで有名ないくつかのハラウ(フラスタジオ)のダンサーたちも一緒だったのですが、その中にクム・エレン・カスティーロ(エレン・カスティーロ先生)と、そのダンサーたちがいました。
ソロで踊ったのは『ヒイラヴェ』というスタンダードな曲でしたが、ひとときも目が離せないくらい、後光がさしているような踊りだったんです。「私が求めているフラはこれだ!」と思いました。
――それで、すんなりクムのハラウに?
いいえ、そうではありませんでした。「あなたにフラを習ってみたい」と声をおかけし、住所をいただいたのですが、何度、写真も同封して手紙を送っても返事がこない。それで一度はあきらめました。
日本のハラウでさまざまな経験をさせていただき、多様なスタイルを体験し、それでもやはり、「私はやっぱりエレンの踊りが好きなんだ」と思い返した5年後、今度はインターネットで猛検索。オアフ島のカイルアにハラウがあることはわかっていたので、手あたり次第メールを送っていると、とあるハワイ在住の日本人の方が「エレンのアラカイ(クムの代行者・ハラウのリーダー)のダルシー・モニーズと仕事をしたことがあるので、彼女にならつなぎますよ」と橋渡し役を買って出てくれました。
そして、すぐにダルシーから「ハワイにいらっしゃい」という連絡を受け取ったのです。あとから聞くと、エレンは日本にきたときから病が進行していて、今はアラカイであるダルシーが許可を得て、取り仕切っているとのこと。だから手紙のお返事もなかったんですね。
―― ずいぶん長い年月をかけて、憧れの人を探し出したんですね。 ダルシーは4歳からエレンのもとでフラを続けている愛弟子。フラの世界大会でも活躍した女性です。
仕事を調整しながら定期的にハワイへ通い、ホテルでプライベートレッスンを受けるうちに、あるとき「明日はハラウにいらっしゃい」と言われました。そのとおりにおじゃますると、ダルシーだけでなく、エレンがソファに座り、後方にも見知らぬ女性が。そして、鏡の前には子どもが2人。「一緒にこの曲を踊りなさい」「次はこのステップを」と、言われるままに踊ったのですが……。
翌日、ダルシーがホテルにくるなり、「おめでとう!」と言われて、私には何のことかさっぱりわかりませんでした。
――いったい、どんなサプライズが待っていたんですか?
先代のクム、エレン・カスティーロとともに(写真提供:有島加花)
私に「Pūkaikapuaokalani(プーカイカプアオカラニ=天国からの海の貝の花)のフラをすべて学ぶ許可を与える」と、エレンがダルシーに伝えたとのことでした。それまで、ほかにも教えてほしいとくる日本人はいたようですが、エレンが断っていたそうです。
スタジオにいた女性はエレンの娘で、一緒に踊った子どもたちはエレンの孫たち。ハワイのハラウにとってフラは伝統そのもの。ファミリーの承認なしに伝統を受け継ぐことはできないので、ファミリー総出でレッスンしてくれたということでした。
――思いきってハワイまで行ったことが、人生を大きく変えるきっかけになったのですね。有島さんのハラウの名前「Halau Hula O Kapuaokalani(ハラウ・フラ・オ・カプアオカラニ)」は、現在のクムであるダルシーさんから命名されたそうですが、どんな意味があるのでしょう。 「天国からの花」です。「天国から舞い降りる花って、どんな花ですか?」とダルシーに尋ねると、「あなたはどんな花をイメージする?」と聞かれたので、「桜でしょうか」と。「桜、いいじゃない! ハワイにも桜は咲くのよ」ということで、イメージフラワーは桜になりました。ハワイ校のハラウ名の一部をいただいたこともあり、この名に恥じぬように精進していきたいと思います。
――人生を変える出会いを通して、クムフラからハワイの伝統を受け継ぐ後継者となった有島さん。最終回となる次回は、日本校でどんなレッスンをしているのか、フラを通じて伝えたいことは何か、そしてフラへの思いを聞きます。
(構成・宮嶋尚美)
有島加花さんのホームページ
【Hula is my culture~私がフラを通して本当に伝えたいこと~】
https://kahanahula.wordpress.com/