修業を目的とする精進料理に対して、京都の御所ゆかりの尼寺料理として室町時代から600年余りにわたり受け継がれてきた竹之御所流精進料理を供する尼寺・三光院。東京・武蔵野にたたずむこの寺の住職に、西井香春さんが弟子入りしたのは20数年前。現在は後継者として腕をふるっています。この竹之御所流精進料理を武蔵野の地に根づかせた初代住職・祖栄禅尼、国際化を進めた二代目・香栄禅尼の功績を、三代目となる香春さんにうかがいます。
――初代住職・米田祖栄禅尼(そえいぜんに)は、およそ80年前、京都の曇華院(どんげいん)から招かれて三光院を開かれたとか。どんな方だったのでしょう?香春 祖栄禅尼は5歳のとき、京都の霊鑑寺(れいがんじ)というお寺に入ったそうです。霊鑑寺も曇華院と同じく歴代の住職を皇女が務めてきた歴史ある尼門跡寺院です。8歳で「竹之御所」と呼ばれる曇華院へ移り、20年余りを過ごした後、三光院が建立された昭和9年(1934年)、「ぜひに」と請われ住職としてお一人でこちらにいらっしゃいました。
祖栄尼は著書で「京都から参りまして、広い武蔵野の真ん中で、それはそれは寂しゅうございました」と語っているように、当時の武蔵野はあまりに田舎でびっくりなさったんじゃないかしら。
――祖栄禅尼はお姿も小さくて可愛らしく、愛嬌のある方だったそうですね。三光院でも、京都でつくっていた竹之御所流精進料理を毎日召し上がっていたとか。でも、この由緒ある尼寺料理を花開かせたのは、現住職の香栄禅尼だといいます。
香春 今の住職は武蔵野の女学校に通っていて、修学旅行で泊まった京都の尼門跡寺院の美しさに感動し、地元に尼門跡ゆかりの三光院があることを知り、訪ねられたそうです。初代とは対照的に宝塚の男役のように背が高く、大柄な方なの(笑)。
日々の手伝いをしながらお料理を学ぶうちに祖栄禅尼さまに気に入られ、祖栄禅尼さまがお体を悪くされてから、後継者となるため30代で得度されたそうです。
祖栄禅尼さまは飛び抜けてセンスがよく、器用でお料理上手。でも、幼いころから御所流の精進料理に親しんでこられたので、その価値に気づかなかったのではないでしょうか。一方、香栄禅尼さまは三光院の料理の素晴らしさをいち早く見抜き、檀家を持たない尼寺の収入源として、竹之御所流精進料理をお寺に来た一般の方に出そうと思いつかれたのです。
――経営者的なセンスもお持ちだったということでしょうか。
香栄禅尼が考え出した「香栄とう富(豆腐の燻製)」。宅配による販売も行っている
香春 境内で精進料理の教室を始めたり、寺の助けになればと東京・赤坂の料亭の女将の秘書になって経営を学んだり。こうと決めたら行動するお人柄です。
精進料理はもともと本堂で出していましたが、「正座で食事をするより体が楽でしょう」と、境内にあった幼稚園の建物を「十月堂」とし、テーブル席を用意しました。「それでも、せめて畳のものを」と考案したのが、テーブルの表面を畳にした和風テーブルです。自ら、京都の名のある寺院から信頼の厚い畳屋さんに半年間通い詰め、ご好意を得てオリジナルを完成させました。
――あたかもミニチュアの茶室のような和風テーブルには、表面の畳の一部が切り取られ、茶室同様に炉を切ったものも。人の心を動かす才能がある方なのですね。
香栄禅尼が手彫りした石仏が、境内のそここに静かにたたずんでいる
香春 竹之御所流精進料理の国際化を陣頭に立って進めたのも香栄禅尼さまです。もちろん御本院から認められてのことですが、まず京都尼門跡寺院の文化を記録として残そうと奔走し、2年かけてテレビ番組を制作。また、近隣の大学では英語で精進料理の講座を開きました。
それだけでは飽き足らず、英語の料理本も出しています。その後も講演に招かれてニューヨークに行ったり、その講演が好評を得て次には西海岸まで教えに行ったり。こんなにアクティブな方はほかにいらっしゃいません。
――香春さんの話を聞いているだけでも、エネルギーに満ちあふれ、信念と行動力の持ち主であることが伝わってきます。そんな香栄禅尼だからこそ、香春さんも進んで弟子入りなさったのではないでしょうか。
「ごま豆腐の葛とじ」
香春 そのとおりです。住職が先代にひかれてここにきたように、私も今の住職にひかれてここにいます。香栄禅尼さまは、竹之御所流精進料理という日本の文化を残すことに一身を投げうたれた、人間として大きな方。まだまだ学びたいことは尽きません。
――次回(第3回)は、竹之御所流精進料理の魅力について、さらに掘り下げます。(つづく)【三光院のホームページアドレス】
http://sankouin.com/(構成:宮嶋尚美)