江戸の動物画に数多く登場するのが、現代でもその存在を確認できない魔訶不思議な生き物たち。中でも人魚は目撃情報をもとに描かれたというさまざまな絵が実在します。その姿は怪しげでインパクト大! 江戸の人が存在を信じた人魚の謎に迫ります。――リアルに描くという写実性を求めた江戸時代ですが、その一方で河童や人魚といった伝説上の動物も多く描かれています。舶来の珍獣も混在していた当時、こうした架空の動物たちはどのような位置づけだったのですか?
『六物新志 2巻』
出典:国立国会図書館ウェブサイト
現代と違って、そうした生き物も実在の動物と同じレベルで見ていたのではないでしょうか。例えば、江戸後期の蘭学者で仙台藩の医官でもあった大槻玄沢は、著書『六物新志』で人魚の肉や骨を霊薬として紹介しています。蘭書から得た情報をもとにしたもので、西洋の人魚の姿が描かれています。知の最前線にいた一流の蘭学者ですら、人魚の存在を信じていたわけです。
人魚は特に北陸から東北地方にかけての日本海側で多く目撃されていたらしく、『六物新志』にも「秋田藩士の小田野直武(洋風画家)が、男鹿の漁師から人魚の形状を聞き、その図を描いて江戸の平賀源内に贈った」という話が記されています。
今から20年ほど前には、八郎潟近くの洲崎遺跡で、人魚とそれを供養する僧侶の姿を描いた杉板が出土して話題になりました。これは鎌倉時代のものだとされています。
――人魚の存在は江戸時代以前から知られていたのですね。 人魚の目撃談は古くからあり、聖徳太子の伝記などにも登場します。現在、その正体はアザラシやアシカなどの海獣や、リュウグウノツカイのような深海魚だったという説が有力です。洲崎遺跡の板に描かれた人魚もゴマフアザラシのようにも見えます。日本海に大きく張り出す男鹿半島は、打ち寄せる荒波にのって「人魚」が着岸する恰好の場所だったのではないでしょうか。
――人魚のモデルはジュゴンという説は聞いたことがあるのですが、日本ではアザラシや深海魚だったとは初耳でした。神秘の海から現れた動物は、いつの時代も人々の関心を集めたのですね。
江戸時代には、人魚も舶来の大型動物と同様に見世物としても人気があったようです。応挙門人の山口素絢が京都四条河原の夕涼みのにぎわいを描いた屏風絵には、水槽の中で泳ぐ人魚の姿が見られます。着ぐるみのパフォーマンスだったのかもしれません。
人魚のミイラも流行しました。オランダ出島の商館長ブロンホフもこうしたミイラに興味を示し、本国に持ち帰った複数の個体が今もオランダのライデン国立民族学博物館に保管されています。御書院番を務めた幕臣で本草家でもあった毛利梅園は、この人魚のミイラをスケッチし詳細な観察記録を残しています。
――なかなか強烈な見た目です。アザラシには見えませんが、まさか本物!?
『梅園魚譜』
出典:国立国会図書館ウェブサイト
人魚のミイラは構造が解明されているんですよ。つまり、体はコイなどの大きな魚で、頭は基本的にはサルの頭蓋骨。そこに和紙などを貼り重ねて、口の中には魚の歯を付けて……とさまざまな素材を組み合わせて作られていたようです。専門の業者までいたという話ですから驚きますよね。
しかもこういったミイラは、現代の科学調査を持ってしても、どこまでが動物の骨格を使ったもので、どこからが人工物なのか、はっきりとはわからないのだそうです。江戸時代の職人ってそれだけ腕がいいんですよ。
――人魚のミイラに日本のものづくりの技術が生かされていたとは思いませんでした。正体不明のものは今も話題になりやすいですし、ファンタジーな世界は時代を問わず普遍的なテーマですね。 仙台市博物館に勤めていたときに、動物画をテーマにした展覧会を開催したことがあるのですが、そこで一番人気だったのも龍や人魚といった架空の動物に関する展示でした。
現代人が謎に満ちた生き物を見る不思議な感覚は、江戸の民衆が初めてゾウやラクダを見たときの感動や驚きに似ているのかもしれませんね。(つづく)
その正体を知ってもなおミステリアスな人魚の絵。未知の世界に沸き立った江戸の人たちと同様に、私たちも無条件に好奇心をかき立てられます。次回はいよいよ最終回。魅力あふれる動物画の世界をもっと楽しむコツをうかがいます。(構成:寺崎靖子)