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食べるしあわせ
忘れられない旅と味
リレーエッセイ
第3回 フィンランドの島のパン 内山さつき(ライター)
ここ10年以上フィンランドに通い続けているが、訪れるたびに必ず買って帰るフィンランドの味がある。それは「saaristolaisleipä(群島パン)」と呼ばれる黒いパンだ。主にフィンランド南西部の群島地域で伝統的に作られてきた保存の効くパンで、ずっしりと重く、ほのかな甘みがある。

私がこの島のパンに出会ったのは、ムーミンの生みの親である芸術家、トーベ・ヤンソンの取材のために初めてフィンランドを訪れたときのこと。そのときは雑誌の特集のための取材で、トーベが夏の間を過ごした孤島クルーヴハルにも上陸できる予定になっていた。首都ヘルシンキから、クルーヴハルのあるペッリンゲという群島地域に向かい、この日船を出してくれるという地元のB&Bオーナー、マルティンさんの食堂でランチをいただくことになった。穏やかに晴れた日だったが、島は波が高いと上陸することができないとあって、私ははじめ昼食よりも天候が気になってしまい、一刻も早く島に向かいたいくらいの気持ちだった。

群島地域の大きな島の入口に位置するマルティンさんのB&Bは、北欧の昔ながらのくすんだ赤い壁に白い窓枠が映える愛らしい建物だった。食堂には木のテーブルが並び、素朴であたたかな雰囲気を醸し出している。大きな窓の向こうには静かな入り江が広がり、建物のすぐそばで白樺の木立が明るい光を受けて揺れていた。
ランチは簡単なビュッフェ形式で、サーモンスープとオープンサンドを自分の食べる分だけ取るスタイル。北欧ではパンの上に具をのせるオープンサンドがよく食べられている。そのときも5、6ミリの厚さに切った黒いパンにサワークリームとスモークサーモンがのっていて、その上にディルが添えられていた。サーモンスープもあるので、まずはひとつお皿に取り分けた。席に着き、そのオープンサンドを口にしたとき、私は予想していなかったおいしさに思わず声を出してしまった。

ずっしり濃厚なパンの味わい、なめらかなサーモンの塩気、サワークリームの酸味、そしてディルの爽やかな香り。すべてが完璧に調和していた。私は夢中で取材をコーディネートしてくれたガイドさんに、これは一体何というパンなのか尋ねた。そこで初めて、これがフィンランドの群島地域に伝わる「群島パン」というものだということ、モルト(麦芽)やダークシロップ(メープルシロップの一種)を加えて作られていること、日持ちがすること、島や作る人によってレシピが異なることなどを教えてもらった。ちなみにマルティンさんが出してくれた群島パンは、ホームメイド。オレンジジュースを加えるのが秘訣なのだという。私が感動していると、マルティンさんは「うちのが特別おいしいっていうのは知っているけどね」と言わんばかりの笑みを浮かべ、「もっと食べろ」とジェスチャーして勧めてくれた。

その日はやむをえない事情があって、結局トーベの島には上陸できなかったのだけれど(なぜか気になる方は、ぜひ拙著の『トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて』を読んでみてください)、私はあのパンの味を忘れることができず、帰国する前にヘルシンキのオールドマーケットホールで、マルティンさんのところのものではなかったが群島パンを一斤買って帰った。そしてそのときから今日に至るまで、ずっと群島パン好きは続いている。

さまざまな群島パンを食べているうちに、作られた場所によって味も食感も異なることを知った。ひまわりの種などのシードやナッツを砕いたものが加えられていたこともあったし、生地のしっとり具合、甘みの程度もそれぞれだ。ときにはパサパサしているものもあって、当然ではあるが群島パンだからといってすべてが感動するほどおいしいわけではない。それでもモルツの熟成した甘い香りとライ麦のどっしりした食感、ダークシロップの甘みは私の食の好みのど真ん中だった。少しの量でお腹がいっぱいになるのも嬉しい。

地方の工房で作られている群島パンはその土地か、ヘルシンキの大きな食料品店やマーケットホールなどに行かないと手に入らないが、「マーラハデンリンップ(maalahdenlinppu)」という商品名の群島パンは量産され、比較的、全国のスーパーマーケットで普通に買えることもわかった。薄くスライスされているタイプもあって、不器用でパンを薄く均一に切ることが苦手な私にとってはありがたい。「マーラハデンリンップ」は、帰国間際にスーパーマーケットに立ち寄り、必ず買っていくお気に入りの品となった。きちんと保存すれば、場合によっては数カ月、開封後も1週間は日持ちするので、帰国してからもしばらくはフィンランドの余韻に浸ることができる。
それでも、やっぱりマルティンさんの群島パンは別格だったと思う。その後もトーベの取材でペッリンゲを訪れるたびに彼のパンを買って帰っていたのだが、残念ながら数年前にマルティンさんはお亡くなりになってしまった。そしていまだに彼の群島パンを超えるものには出会っていない。

群島パン独特の甘い香りを吸い込むと、「ああ、フィンランドの島の香りだ」と思う。深呼吸して全身でその香りを味わいたくなる。それは、フィンランドではとてもよく飲まれている浅煎りのコーヒーの香りと混ざり合って、私をいつも幸せな記憶で満たしてくれる。


(イラスト:きりたにかほり)

好評既刊『トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて』

内山さつき 著


定価2420円(税込)

「ムーミン」シリーズの生みの親で芸術家のトーベ・ヤンソンが26年間、ほぼ毎年の夏を過ごした島クルーヴハル。トーベの面影を追いかけ、その孤島に1週間滞在した忘れがたい日々と、トーベの友人たちが語った友情の思い出を重ねるように綴る旅のエッセイ。アトリエや幼少期を過ごした家、ムーミン美術館など、トーベゆかりのスポットも収録。ムーミンを愛する人、トーベ・ヤンソンに魅せられた全ての人に贈る1冊です。

◆書籍の詳細・購入は→

こちら

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【うちやま・さつき】
東京都生まれ。月刊誌の編集執筆に携わった後、フリーランスのライター、編集者として独立。「旅・物語・北欧」をテーマに取材を続ける。2019年から全国を巡回した「ムーミン展 the art and the story」の展示監修&図録執筆を担当するほか、朝日新聞デジタルの連載「フィンランドで見つけた“幸せ”」や「地球の歩き方 webサイト」のラトビア紀行を執筆する。2014 年夏、「ムーミン」シリーズの作者トーベ・ヤンソンが夏に暮らした島、クルーヴハルに滞在したことをきっかけに、友人のイラストレーター・新谷麻佐子さんと北欧や旅をテーマに発信するクリエイティブユニットkukkameri(クッカメリ)を結成。ユニットとしての著書に『とっておきの フィンランド』『フィンランドでかなえる100の夢』(ともにGakken)。2023年に開設したwebサイト「kukkameri Magazine」では、フィンランドのアーティストたちを紹介している。
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