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食べるしあわせ
料理書から読み解くニッポンの食卓 食文化研究者
東四柳祥子
第3回 「和食」は先人の苦労と創意工夫のたまもの
 今では定食として洋風の総菜にもご飯とみそ汁の組み合わせは当たり前。ですが、私たちが日ごろから親しんでいる「日本食」がこうした形に落ち着くまでには、先人たちの涙ぐましい試行錯誤の冒険がありました。今回は、近代の料理書をひも解く中で出会ったビックリな料理や当時のレシピの再現などについてうかがいます。

――インタビューの第1回で、明治初期に日本が近代化の道を歩み始めたころの料理書は、多くが西洋の翻訳物だったと聞きました。料理も食材も未知のものが多くて、さぞ先人は苦労したのではないでしょうか。

東四柳祥子先生

 そうだと思います。食べたことはおろか、見たことすらない料理や食材について翻訳するのですから。当時の翻訳には、何のことだかよくわからないものも登場しています。たとえば「Good Puff Pastry」は「上等の膨れる練りもの」と訳されていますが、今なら「おいしいパイ菓子」と訳したいですよね。また「Lobster Cream」は訳しようがなかったのか(笑)、そのまま「海蝦とクリーム」と翻訳されていますが、今でいうところの「ビスク」です。
 それが明治の終わりごろになると、ミートオムレツは「肉入り卵焼き」、ミンチコロッケは「叩き肉のコロッケ」、チキンシチューは「鶏肉の煮込み」といったように、より具体的になっていきます。また別の料理書では、フライは「我が料理の天ぷらと同じ」とか、サラダは「日本料理の酢の物と同じ」といった具合で置き換えて理解を促す工夫もみえています。イメージしやすいですよね。

――なるほど。「今、こんな料理はないわよ!」というものもあるのですか?

 明治期の雑誌には、「マスタードをかけたうなぎのかばやき」とか、「ぬか漬けのハム」「牛乳入り汁粉」などなど、今の私たちには少々違和感のあるものも出てきます。コーヒーに卵を入れるとまろやかになるといった驚きアドバイスなど苦笑いしてしまうものも多い。また「雑品煮スープ」とあって、「何のことだろう?!」と思うとクラムチャウダーだったり、謎解きのような楽しさにも出会えます。
 ですが、なかにはバターを「うどん粉を水に溶いたもの」とか、ココアを「ヤシの実の煮汁」と訳すなど、明らかに間違えている説明文もあります。

 言葉が残っていない料理もあるんですよ。当時の料理書に「フーカデン」という名称が出てくるのですが、レシピを見てみると、まさに蒲鉾型のミニハンバーグ。明治初期の西洋料理書には、このフーカデンが頻繁に登場するのに、ハンバーグという言葉は出てこないのです。不思議に思いながら海外のガイドブックを見ていたら、デンマークに「フリカデラ」、ドイツに「フリカデレ」という一口ハンバーグがあることを知り、「ああ、ここからきているのかもしれない」と思いました。また明治期の家庭向け料理書に「ミンチボール」という名称でミートボールを紹介している料理書もありましたが、今ではミートボールという呼称が定着していますよね。こんなふうに、時が経つうちに似ている料理に包摂されて消えてしまった料理名もあったのでしょう。

 また、「ステーキ」と書いてあるのに、薄切り肉を炒める調理法だったり、「焼いてから、一度水で洗って油を落とし切り、さらに焼く」なんてレシピも確認できます。肉食に抵抗があった日本人にとって、肉の脂身は私たちが感じる以上に重かったのかもしれませんね。冷蔵技術も未発達ですから、肉の食味が悪かったことも想像できます。
 特にチーズとの出会いは衝撃的だったようで、文明開化とともに供応の場などで口にする機会はあったものの、見た目が固形石鹸を思わせることや青カビへの抵抗などで忌避する声も相次いでいます。実際明治後期以降の書籍で、牛乳やヨーグルトなどの乳製品の普及を期待する声が出始めるのも確かですが、広く社会に普及したのはやはり戦後でしょう。
 明治以降の日本において、滋養は重要なキーワードでしたので、丈夫な身体づくりのために食べ慣れない西洋食材の積極的な食用をすすめる動きは顕在化しますが、受容への抵抗と恐れがあったことは否定できない事実でもあります。料理書はそっとその裏側で苦戦していた先人たちの様子を伝えてくれるのです。

――今でこそバジルやローズマリーなどのハーブはスーパーマーケットでも手に入りますが、当時はなかったですよね。洋食に独特な調味料などはどのように工夫していたのでしょう。

 洋食をつくるときにワインやソースが手に入らなかったら、味醂と醤油で代用してもいいとする記述が見られるように、柔軟に対応していたようです。実際の食生活を調査しても、中流階級層の主婦がつくったというロールキャベツはキャベツが手に入らないから白菜で代用し、オムレツの具には前日の残り物を用いた、といった記録もありました。

 一方で、幼いころから西洋食材にふれていた世代が大人になる明治期の終わりから大正期にかけての時期は、柔軟に洋風と和風の融合が図られた画期でもありました。料理書の中にもケチャップやマヨネーズ、ソースが出てくるなど、徐々に新しい調味料も浸透する様子がみえます。手軽な洋食店も増えて身近になったおかげで、西洋食材や西洋風調味料への抵抗も軽減されていったのだと思います。実際に当時の料理書を見ると、「◎銭でできるチキンライス」など、外食よりお得に調理できることを謳い文句にした特集も組まれています。まるで憧れの“カフェご飯”をおうちで手軽に楽しめるようにアレンジする、今の雑誌の人気企画みたいだと思いませんか?

『軽便西洋料理法指南』(1888年)をもとに、東四柳先生のゼミ生が再現したアイスクリーム。牛乳に対して玉子の量が多くいため色が濃く粘度も高め。裏ごしの工程がないので口当たりが悪く、甘みも非常に強い。

こちらは『家庭向牛乳料理』(1922年)をもとに再現。コーンスターチを使うので出来上がりはなめらか。アイスクリームと果実の食感の違いや甘さと酸味の調和が楽しめる

 このように、大正期になると日本人がやみくもに受容していた西洋食文化をようやく咀嚼(そしゃく)できるようになり、自分たちの文化として根づかせていこうとする気運も高まります。また大らかさと柔軟さをもって外国の食材や料理を取り入れた折衷料理はやがて「洋食」と呼ばれ、日本人向けにアレンジされた洋風料理を意味するようになりました。それに対して、「西洋料理」というと、少々かしこまったレストランでいただく料理というふうに呼び分けられるようになります。
 さらにこの「洋食」に対して、「和食」という名称が浸透し始めるのもこの頃。つまり、「和食」という名称の歴史は実はそんなに古いものではないのです。

――なるほど。今ではトンカツも肉の生姜焼きもジャンル的には和食です。先生は学生たちと日本の近代の料理書に掲載されている料理の再現にも取り組まれたそうですね。

 以前、明治期のビーフシチューを再現したことがあるのですが、当時はワインもトマトソースもデミグラスソースも出てこないので、バターと小麦粉を炒めてブラウンソースにして、そこに水と塩コショウを入れただけのシンプルなものでした。アイルランドにはそうしたシチューもあるのですが、やはり物足りない味でしたね。学生たちが鍋をのぞき込み、「ここに醤油を入れて味を調えたい!」と話していたのを覚えています。

 ですが、昔のレシピにはどこか温かな雰囲気が感じられますよね。第1回で紹介した「玉子やきの簾(すだれ)まき」のように語り口調の料理書も種々確認できます。執筆者の方々と一緒に料理をしている気持ちになれるのも魅力ですよね。(つづく)

大正時代の「マダレーム」(東四柳ゼミ調理)

――東四柳先生と学生たちは、明治期のマドレーヌやマフィンづくりにも挑戦。分量やオーブンの温度に関する記述は一切なく、焼き時間に至っては「よく焼くべし」とあるのみで、3つのバージョンで試作し、どれが一番「それっぽいか」を検討したのだそうです。当時の人たちもそんなふうに試行錯誤したのかもしれませんね。次回はいよいよ最終回。これからの料理書と和食の未来について聞きます。

(構成:白田敦子、写真資料提供:東四柳祥子)
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【ひがしよつやなぎ・しょうこ】
1977年石川県生まれ。梅花女子大学食文化学部食文化学科教授、博士(学術)。東京女子大学文理学部を経て、東京家政学院大学大学院人間生活学研究科(修士)修了。国際基督教大学大学院比較文化研究科にて、Ph.D.Candidate取得退学。専門分野は比較食文化論。著書に『料理書と近代日本の食文化』(単著/同成社)、『近代料理書の世界』(共著/ドメス出版)、『日本の食文化史年表』(共編/吉川弘文館)、“Japanese Foodways, Past and Present”(共著/University of Illinois Press)など。
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