「あの日」からもうすぐ10年。東日本大震災の直後から福島の子どもたちへの支援活動を続けている画家の蟹江杏さんへのインタビュー。2回目は、今なおエネルギッシュな行動力を支える忘れられない光景からうかがいます。――小学生だった子どもたちが成人式を迎えると聞くと、やはり10年というのは長い年月です。寄り添い続けてきた杏さんにとって、最も印象に残っているのは?
夏休みやクリスマスなど折々に福島・相馬を訪ねて子どもたちと一緒に絵を描いている(2019年)
震災後1週間ほどでの避難所で出会った子どもたちの表情です。私が訪れた福島県相馬市は地震の被害もさることながら、津波やその後の東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で、被災地の中でも最も過酷な状況にありました。「うちは戻ってきた」とか「うちは帰ってこないよ」という会話が行き交い、外遊びもできない避難所で、目をらんらんとさせた子どもたちが初対面の私に向かって嬉々として甘えてきたのです。普通なら経験しないことを経験してしまったあどけない子どもたちが、見ず知らずの大人に一種の興奮状態でじゃれついてくる尋常ではない姿に、打ちのめされました。
自分なりに“アートの持つ力”で子どもたちを元気にしたいと、強い覚悟と決意で乗り込んだつもりだったけれど、これはそんな生やさしいものではない。
私自身、温かい食事や穏やかに眠る場所があることが当たり前の生活の中で絵を描いてきただけだったのだな、と思い知らされたのです。
被災地の子どもたちにとっていちばん大切なのは、生活や食べていくことであり、なによりも自分を愛してくれる人が近くにいるということ。では、それがかなわない子どもたちのために、アートは何ができるのか? いや、もしかしたら“アートの持つ力”なんてないのかもしれない……。そう思ったときから、「とにかくこの子たちの手を離してはいけない、離さない」と腹を決めました。
東京・新宿などのアートイベントをプロデュースし「お絵描きお姉さん」としても活躍する(2015年、撮影:編集部)
――ロンドンで版画を学んだ杏さんは、もともと舞台美術や衣装デザイン、ポスター広告など、画家の枠を飛びこえるちょっと前衛的なアーティスト。一方で、ライブペインティングでは「お絵描きお姉さん」として子どもたちから親しまれていました。それが被災した子どもたちと出会うことで、アーティストとしての方向性が大きく変わったということなのでしょうか。 それまで自分で思い描いていたアーティスト像は、どちらかといえば時代の先端を突っ走るような存在。それが子どもたちとかかわり始めたことで、変わっていきました。私が踏み込んだ道は、アーティストという以前に一人の人間として、子どもたちの「これから」を一緒に形づくる大仕事。それまでもアートの対象として世界や社会のあり方に関心はありましたが、この大仕事は実際にさまざまな社会的制度や政治ともかかわり合いながら地道に止まることなく歩まなければならない、引き返すことのできない道でした。
それなのに、当時の私にはアーティストというよりまだ一人の人間としての力がない。そう思い知らされたのです。あらためて「ゼロ地点」に立ち、アーティストとしての蟹江杏がこれから何を創造していくのか、一人の人間としての蟹江杏がどう生きていくのかを考えざるを得なくなりました。「NPO法人3.11こども文庫」を立ち上げたのは、アーティストとしての創作活動と並行して、継続的に子どもたちに寄り添い続ける方策を探ろうと考えたからでした。
――「3.11こども文庫 にじ」を相馬市に、天栄村では13年6月に移動図書館「3.11こども文庫 みず」が始動。各地で子どもと一緒にアートワークショップを行うなど復興支援活動に取り組んでいます。次回(最終回)は、そんな杏さんが最近、特に危惧しているという子どもたちをめぐる課題について話を聞きます。(つづく)(構成:白田敦子、写真提供:Atelier Anz)
蟹江杏さんが描く子どもの本
『あんずとないしょ話』 子どもたちの心の奥底にある本音を、創作活動の原点でもある自身の子ども時代を振り返りつつ、版画と感性あふれる文章で描き出す。ミュージシャン・石川浩司さん(元・たま)との対談も収録。
『あんずのあいうえお』「あ」から始まる「いのちの名前」。はじめて50音に出会う子どもたちも、もう一度50音に再会したい大人たちも、杏さんが描くひらがな50音の世界を旅しよう!
【蟹江杏さんのホームページアドレス】
http://atelieranz.jp/