「個人旅行に行きたいのですけど、いくら必要でしょうか?」
とある日のランチタイムに、30歳前後と思しき女性がこう尋ねてきました。聞けば、これまでパックツアーに何度か参加していて、そろそろ自由度の高い個人旅行を始めてみたいとのこと。実はこのご質問、ととら亭でよく聞かれる最上位のものでして。
まぁ、旅の資金は、料理でいえば絶対に欠かせない材料ですからね。そこで僕の回答はいつも、「あなた次第です」。これでは答えになっていないようですが、実際に旅の費用を決めるのは、旅行代理店や航空会社ではなく、旅人の「衛生観念」によるところが大なのですよ。
日本人に人気のあるエジプト旅行を例にとりますと、日本にいるときと同様の「きれいなトイレ」にこだわった場合、費用を松竹梅に分けるなら、ほぼ確実に松コースとなるでしょう。
まず、安ホテルでは、潔癖症の方にとってかなり抵抗感のあるケースがほとんど。また、鉄道など公共の交通機関のトイレとなると、中で転んだが最後、重度のトラウマを覚悟せねばなりません。僕らが乗ったカイロ―アレキサンドリア間の2等客車はトイレの中だけではなく、その周辺もきつい悪臭が漂っていました。立ち寄るレストランにしても、価格の安いローカル御用達の店は、いわゆる左手式でトイレットペーパーがない場合もしばしば。こうなると、中級以上のホテルに泊まり、きれいなトイレ付きツアーバスで移動し、外国人が出入りする高級レストランで食事をせざるを得なくなります。当然、費用はそれなりのものとなるでしょう。

カイロからアレキサンドリアへ向かう鉄道の2等客車内は、掃除や修理とは無縁の状態

ローカルレストランのトイレ。トイレットペーパーは使えない“左手式”
それからもう一つのコスト決定要素が、「専有面積の広さ」。これは言わずもがな、飛行機では広い席ほど料金が高い。最近ではエコノミーでも非常口前を指定すると割高になりますし、ビジネスクラスにいたっては、エコノミーのほぼ倍の値段ですからね。
陸上の移動手段も、荷物の置き場にさえ困るローカルバスではなく、広く涼しく快適な貸し切りリムジンに乗れば、費用は先の10倍を超えるでしょう。さらにホテルの部屋で20平方メートル以上の広さを求めれば、トイレの件を別としても、グレードが「中の上」以下では望むべくもありません。

カイロの雑居ビルの中にあるホテルへ。シャフトが開放型のエレベーターは、スリル満点のアトラクションに

安ホテルのフロントは人がいないことも多く、たいていこんな感じ
しかし、逆もまた真なり。衛生環境に目をつむり、狭い場所でも我慢できれば、コストは驚くほど下げられるのです。
僕らの場合、エコノミークラスのトランジット(乗り継ぎ)便で移動し、安ホテルに泊まり、公共の交通機関を利用して、基本的にローカル食堂で取材をしますから、一般的な旅行費用よりだいぶ安く抑えられています。もっと節約するのであれば、FSC(フルサービスキャリア)ではなくLCC(ローコストキャリア)を乗り継ぎ、ホテルは個室ではなくドミトリーに泊まるという選択肢もありでしょう。
こう説明すると、結局、旅行費用は「衛生観念」と「専有面積の広さ」ではなく、「我慢」のレベルで決まるのはないかとのご指摘もあるかと思います。ところがこれもまた、僕に言わせると旅人本人による「選択の結果」なのですよ。
なぜなら、長らく周りを観察していて気づいたことに、旅のコストは、日常の生活水準以下に飛び込むか、同じレベルを維持するか、それを超えるラグジュアリーなものを楽しむかの3種類に行き着く、というのがあります。これを浴室にたとえるなら、「シャワーがあればいい」から、「バスタブがなければだめ」、「ジャグジーがなくちゃ!」となりましょうか。旅は人生のミニチュア版だとすれば、どの種類を選択するかは、我慢のレベルではなく、個々人のライフスタイルの違いなのですよ。
では、質素であれば総額10万円以下で1週間のエジプト旅行に行けるかというと、それはそれで無理な話でしょう。いくらなんでも底値や相場というものがありますからね。
そこでまた、年に数回も海外取材旅行に出ているとしばしば頂戴するのが、「ととら亭は大繁盛店ですね!」「えーじさんは大金持ちですね!」といったお言葉。ところが残念ながら、ととら亭の収支はとんとんですし、僕も資産家の御曹司ではありません。タネを明かせば、これもまたライフスタイル、つまり人生の選択の結果なのです。

エジプトは暑い国なので安ホテルでも天井が高く、殺風景でも部屋は広め

窓の外は交通量の多い道路。安ホテルで安眠したいのであれば耳栓は必須
第1回で触れた、4カ月間に及ぶユーラシア大陸横断旅行。確かにそんな旅に出られる人は、そう多くはないでしょう。となると、「いいなぁ~」と言われるのもわかります。しかし、そうおっしゃる方は、何か大切なことを見落とされている気がするのです。
それは、ご自身がすでにお持ちになっているもの。たとえば、僕ら夫婦は選択的に子どもを作りませんでした。ですから赤ちゃんが生まれたときの感動を知りませんし、初めてもらったパパやママの似顔絵を冷蔵庫に貼って眺める喜びも知らない。日常的にも、一人当たりの月間労働時間が400時間くらいありますから、テレビの人気ドラマが見られないだけではなく、熱い風呂が恋しい冬でさえ、入れるのはせいぜい週に2日だけで後はシャワー。いわゆる、世間にあって当たり前の日常がないのです。これだけでも、僕らがなぜ旅行費用を捻出できるのか、ご想像いただけるのではないでしょうか。
現実は明白です。旅のリソースに限らず、何ごともすべてを手に入れることはできません。組織の要職に就き、よき夫や妻であり、子育てに勤しみ、毎月貯金をし、週末は奉仕活動に精を出し、毎晩ゆっくり読書をしつつ、ときには4カ月に及ぶ旅にも出る、などという離れ技は常人に不可能なのです。
だからといって、堅気の人に自由な旅は無理だと主張しているのではありません。むしろ僕らの極端な旅は、その可能性がすべての人に開かれていることの一例だと思っています。
それは距離や行き先、期間にとらわれず、ほんの数日の国内旅行でも十分。資金にしても、ゼロでは不可能ですが、さりとてボーナスをまるごとつぎ込む必要もない。なぜなら自由な旅は、何かを得たから実現するのではなく、今持っている何かを手放すところから始まるのですから。
この連載のタイトルは「自由な旅のレシピ」。ではその自由とは何か?
それは社会的な制約を離れるという意味だけではなく、いや、それ以上に、「こうでなければならない!」と言い張る自分自身と向き合うことにほかなりません。そう、自分から自由になったときにはじめて、冒険の旅が始まるのです。(つづく)
▶次回のレシピ▶▶▶とどのつまり、旅人がリッチだった時代などなかったと思います。それは言い換えると、懐事情は旅人にとって、あまり大きな問題ではなかったということでしょう。大切なのは、こだわりを捨て、あるものに着目し、その限定された条件の中で自分をどう解放するか。
第3回は「旅の主人公は誰?」と題し、テーマを決めることが旅をより豊かにし、記憶を深めるというお話をします。何年経っても色あせない旅とは、旅人にとってかけがえのない宝物ですからね。
(写真提供:久保えーじ)
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