× close

お問い合せ

かもめの本棚に関するお問い合せは、下記メールアドレスで受けつけております。
kamome@tokaiedu.co.jp

かもめの本棚 online
トップページ かもめの本棚とは コンテンツ一覧 イベント・キャンペーン 新刊・既刊案内 お問い合せ
かもめアカデミー
古着でひもとく日本リサイクル史 尚絅学院大学総合人間科学系教授
玉田真紀
第2回 江戸の一大古着ビジネス
 江戸時代初期には、暖かく丈夫で加工しやすい木綿が大流行。江戸の町では木綿の古着を売り歩く商人が現れ、貴重品であった衣服を資源として再利用する商売が全国に広がっていきます。今回は400年前に端を発した古着ビジネスについて聞きます。

玉田真紀先生(写真:編集部)

その土地にないはずの布
 私が日本の古着文化に興味を持って研究を始めたころのことです。衣服や布に関する資料を調べていると、その地域では生産できなかったはずの端切れが使われていることに気づきました。不思議に思い、それまで断片的な情報しかなかった古着の流通に関する資料を調べあげたところ、行き着いたのは、江戸期に確立された古着・古布の流通システムの存在でした。国内の綿花栽培が奨励され木綿が爆発的に普及したこの時代、庶民の衣服も麻から木綿へと変わり、衣生活は豊かになりました。しかし、高価な新品の着物を購入できる機会は限られており、庶民が日常的に着るのは古着でした。

 さらに、同時代の古着問屋の記録を集めた『古着問屋旧記』という書物には、1600年代初期の話として「奥羽には木綿畑がなく、木綿を見る者も稀なので、古着の買い入れに目を付けて商売を始めた」という古着商人に関する記述があります。この記録にあるとおり、寒冷地である東北では綿花を栽培できないこと、倹約令により労働着に木綿の使用が禁じられていたことなどから、木綿古着には非常に高いニーズがありました。これに応えたのが、優れたビジネス感覚を持つ商人たちだったのです。

日本中を古着が巡る!商人が築いた古着流通システム
 江戸周辺にあった古着問屋は大きく2種類に分類されます。一つは地元である関東周辺の古着を集めて卸す「地古着問屋」、もう一つは江戸の注文に合わせて京阪へ古着を発注する「下り古着問屋」です。大坂はさまざまな産品の集積地で、木綿の生産が盛んな大和、河内、摂津、和泉、播磨といった、現在の近畿地方に近く、古着の仕入れ拠点として機能していました。そこで集められた古着は、北前船や菱垣廻船・樽廻船、西廻り航路・東廻り航路といった海運によって、消費の中心地である江戸のみならず、東北や北海道にまで運ばれました。

裁縫の様子。和服は直線断ちで反物を無駄なく使え、解けば布に戻るので再利用もしやすい
出典:岡野栄太郎編『日本裁縫独案内』東京書林、明治25年/玉田所蔵

 江戸時代後期の風俗を書いた『守貞漫稿』には、古着店が並ぶ日本橋富沢町や橘町の様子のほか、籠を担いで古着を売り歩く「竹馬古着屋」の様子も記されています。東北各地の港に届いた古着は、河川や徒歩によって内陸にまで運ばれました。取り扱った品々も多彩です。衣類だけではなく、古着をほどいて平らな布にした「古解分(ふるときわけ)」、継ぎ当てなどに使えるくらいの小さな古布「熨斗継(のしつぎ)」、裂織の緯(よこ)糸にする「織草(おりぐさ)」など、今の感覚では「そんなものが商品になるの?」というような細かいものまで売買されていました。

 江戸時代中期には、江戸にも大坂にも古着の商売に関わる人が3000~4000人近くいたそうです。売り買いだけでなく、古着をほどいたり、洗ったり、仕立て直したりという作業もしなければならないので、多くの人手を必要としたのでしょう。古着や古布は仕入れが不足するほど需要が高かったといい、当時の古着ビジネスの盛況ぶりがうかがえます。

 それと同時に、あらためて感じるのは、江戸期に活躍した商人たちがいかに優秀だったかということです。インターネットも電話もないこの時代に、お客様目線で地域のニーズをキャッチし、ボロボロの布切れにも商品価値を見いだし、全国津々浦々をその足で歩き、国内循環の一大システムを作り上げた。その手腕と情熱には感動を覚えます。もちろん、過酷な労働や貧富の差、人権問題などもあり、全てがよいことばかりだったわけではありませんが、古着によって命をつないだ人がいたことも事実でしょう。

日本橋富沢町周辺の古着市場(明治10年代)
出典:宮尾しげを『東京名所図解・神田区之部』陸書房、昭和43年


戦後の激変期がターニングポイントに
 明治以降も、古着・古布の流通は社会を支えました。西洋化によって需要が増加した洋紙の原料には、紙くずや木材、ワラのほか、木綿や麻のボロ布が使われました。明治期には近代的な紙幣の発行が始まりますが、原料の80%は破れた足袋だったそうです。洋服を作るために必要な羊毛は国産できなかったため、リサイクル糸が使われました。近代工業の発展にともない、機械の油や汚れを拭くウエス(工場用の雑巾)も大量に必要で、木綿の古布の需要は拡大しました。

 その後、戦時下の物資不足にあえいだ昭和前期を経て、衣生活が急激に変化し始めるのは昭和30年代以降です。高度経済成長に「消費は美徳」との価値観が広がり、衣服は「長く着回すもの」から「流行に合わせて買い替えて消費していくもの」へと変わりました。化学繊維の導入も本格化し、昭和40年代ごろには衣服の大量生産体制が成立。さらに工業分野の産業構造の変化などもあり、長く人々の生活を支えてきた古着の国内流通はその姿を大きく変えました。(つづく)

――時代の変化とともに失われた江戸の循環システム。しかしその流れは完全に途絶えたわけではないのだそう。例えば、私たちが資源回収に出した古着の分別・加工などを手がける故繊維業は、かつての古着商の延長線上にある存在だと言います。日本橋周辺には今でも繊維や服飾関係のビルが多く集まるエリアがあり、古着店が軒を連ねた江戸期の痕跡を残しています。次回は、古着を手にした庶民たちの物語へ。暮らしの知恵にとどまらない、古着文化の魅力を探ります。

(写真資料提供:玉田真紀、構成:寺崎靖子)
ページの先頭へもどる
【たまだ・まき】
共立女子大学大学院家政学研究科修了。母校の被服意匠研究室助手を経て、宮城県の尚絅女学院短大講師として勤務。現在は尚絅学院大学総合人間科学系教授。専門は衣服のリユース・リサイクル文化。服飾文化学会会長、日本繊維機械学会繊維リサイクル技術研究会副委員長、手芸普及協会理事。編著書『アンティーク・キルト・コレクション』(共著、日本ヴォーグ社、1992)、『生活デザインの体系』(共著、三共出版、2012)、『高等学校用ファッションデザイン』(共編著、文部科学省、2022)など。
新刊案内