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美しいくらし
ジョージア旅暮らし日記 モデル・定住旅行家
ERIKO
第1回 リリーさんの真っ赤な口紅
 “ヨーロッパ最後の秘境”と呼ばれるジョージア。「グルジア」という呼び名のほうが聞き慣れている人も多いのかもしれませんが、北はロシア、南はトルコとアルメニア、東はアゼルバイジャンと接しているコーカサス地方の国です。ワイン発祥の地として知られているだけでなく、大相撲の黒海や栃ノ心らの活躍からも知名度が上がり、最近では郷土料理のシュクメルリが大ヒットするなど日本での人気も年々高まってきています。
 来年2022年は「日本・ジョージア外交樹立30周年」の記念の年。ますます注目を集めそうなこの国で暮らす人びとの日常の風景を、首都トビリシはもちろん、ジョージア人にとっても“秘境中の秘境”であるスバネティ地方まで、現地の一般家庭で暮らしながら旅してきた定住旅行家のERIKOさんが綴る新連載です。



 日本からトルコ航空を利用して、イスタンブール経由でジョージアの首都トビリシに着いたのは、8月も終わりに近づいた日のお昼過ぎごろだった。東京の耐え難い残暑に別れを告げ、多少の涼しさを期待してジョージアの土地を踏みしめたものの、トビリシの外気温もさほど東京と変わらなかった。

 到着後はどの国の空港でも気をつけているように、安全を考慮して流しのタクシーは拾わないようにしている。今回はトビリシに暮らすジョージア人のタマルさんが手配してくれたドライバーさんに迎えにきてもらった。政府観光局の阿原さんから紹介してもらったタマルさんは、ジョージアで日本語ガイド務めている女性だ。街の中心地に入ったところでタマルさんと合流し、トビリシでお世話になるタマルさんの友人リリーさんのお宅へ向かう。トビリシには約2週間滞在する予定だ。

 中心地から10キロメートル圏内の、にぎやかな通りから離れた住宅地にリリーさんの自宅はある。タクシーは、冷淡で無表情なコンクリート製のフルシチョフカの前で止まった。旧ソビエト連邦構成共和国だったジョージアはソ連崩壊後の1991年、いち早く独立を宣言した。トビリシの街に今も残るフルシチョフカと呼ばれる建物は、1960年代にソ連の最高指導者を務めたニキータ・フルシチョフの時代に建てられた集合住宅であり、フルシチョフカという名前は彼の名前を取ってつけられたもの。この建物は、後にも先にもトビリシで身近にソ連の面影を感じる唯一のものだった。

 2010年に初めて留学したロシアのサンクトペテルブルグが頭に蘇る。そのときホームステイしていた家もフルシチョフカだった。周囲の景観を圧迫する無機質な印象しか与えなかったあの冷ややかな壁のような建物は、ロシアでの時間が流れていく中で育まれた情深く明るいロシア人たちのイメージによって、やがてそれほど無情には見えなくなった。

 在りし日のロシアの記憶に引きずられながら、リリーさんの自宅がある3階へと上がるエレベーターに乗る。私とスーツケースで定員に達するほどの小さな木製のエレベーターは、動いているのが不思議なほど古い。これもロシアでよく見かけるタイプのもので懐かしい。

 「こんにちは、初めまして。今日からお世話になります」
 3LDKの間取りに一人で暮らしているリリーさんは、初めて会う私を笑顔で迎えてくれたが、その表情の奥には戸惑いの表情が浮かんでいた。私のジョージア語のボキャブラリーはあいさつ程度。そのためほんの数分で底をついたが、幸いにもリリーさんは流暢なロシア語が話せた。ジョージアが旧ソ連国だった時代には、ロシア語で学校教育が行われていたと聞いたことがある。
 「お茶でも飲んでいって」と誘うリリーさんに、タマルさんは「用事があるの」と言って、私とリリーさんを引き合わせた後すぐに帰っていった。

 タルマさんが去った後にリリーさんが私を案内したのは、3畳ほどのスペースに箱のように三片が仕切られた小さなベッドと机と椅子がある部屋。日本を出て20時間以上、その日は長旅の疲れで何も食べずシャワーを浴びてすぐ眠りについた。

 艶のあるシルバーヘアのボブスタイル、しっかりと化粧を施した唇にのせられた真っ赤な口紅、タイトなスカート。還暦は過ぎていると思われる彼女だが、まるで大事なイベントでもある日のように、いつも身だしなみをきちんと整えている。
 「私は毎日、身なりはきっちりするのが好きなの。どこへも行かなくても女性としてきれいにしておくの」

 きっちりしているのは身なりだけはない。丁寧に清掃、整頓された部屋、シンクの中まで磨かれたキッチン、皺がしっかり伸ばされたベッドのシーツ、毎朝ロウソクが灯される埃のない祭壇。棚、ソファなどの家具に新しいものはひとつもないが、家主と一緒に大切に時を重ねていった温かい年季を感じる。美しい部屋とは、特別なものを置いたり飾ったりすることではないことを語りかけてくるようだ。

 ジョージア人の日常の暮らしを体験しに来たと、この国へやってきた理由をリリーさんに説明したが、あまり趣旨を理解できない様子だった。一般的なジョージア人がイメージする旅行とは、ホテルなどに泊まって日常から離れ、観光地などを訪れる“娯楽”。わざわざ外国に来てまで、物珍しいものなどない一般家庭に滞在する意味がよくわからないのかもしれない。リリーさんはきっとあやふやな気持ちを抱えたまま、私との生活を迎えたと思う。

 初めの数日間は食事が出てこなかった。おなかが空くと、アパートの前にある小さな商店でパンを買って食べたりして過ごした。トビリシに到着してからは日々、日本で紹介されたジョージア人に会ったり、街を散策したり、大使館にあいさつへ行ったりしていた。毎日出かけていく私の姿を、リリーさんは3階の自宅の窓から顔を出して見送ってくれた。

 「スープ食べる?」
 リリーさんの家に滞在して3日後に、彼女が初めて食事を作ってくれた。温かいヨーグルトスープにディルがのった料理だった。ヨーグルトのかすかな酸味と甘いタマネギに、ディルのさわやかな香りがアクセントになっている。ヨーグルトからこんなにコクが出るなんて。ひと口食べただけでも、彼女が料理上手で、今までに幾度となくこの料理を作ってきたのだと想像できるような熟練された味だった。

 「あなたは外国人だから、ジョージアの料理を食べるかわからなくて……食事を出していいものか、わからなかったわ」
 スープをあっという間に完食した私を見るリリーさんの視線は、娘を見るような優しさにあふれていた。それから毎日、リリーさんは食事を作って出してくれるようになった。食事のたびに一緒に食べようと何度も誘ったが、「もう食べたからいいの」と彼女は私の食べる姿をキッチンでほほえんで眺めているだけだった。

 キッチンの小さな窓からはトビリシの街を囲むように広がる丘の一片が見える。木々の葉が茶色みを帯びているのを見て、ジョージアにも秋が訪れ始めているのだと知る。窓から差し込む光でリリーさんのシルバーヘアは輝きを増し、白くて美しい肌をよりいっそう引き立てていた。
 無口だった彼女は日を増すごとに、私にいろいろな話を語りかけてくれるようなった。
 「私が若いころは争いばっかりで、外に出れば生きるか死ぬかのような毎日だったの。自分が生きている間にこんなに平和な日が来るなんて想像もしていなかったわ。今は毎日何も起こらず、外へ出ても誰も武器なんて持っている人も見かけないでしょ」

 ジョージアの歴史を語るとき、それは同時に侵略と戦いの歴史と言えるほど、この国はさまざまな争いの舞台となってきた。リリーさんが生まれたのを1950年代と仮定して、ジョージアの歴史を振り返ってみることにした。彼女が幼かったころのジョージアはソビエト連邦共和国の一員であり、ロシア語由来のグルジアと呼ばれていた。1953年に死去するまでは、グルジア出身のスターリンがソ連の最高指導者であった。

 彼女の学生時代は、グルジア国内でもロシア語学校が大半を占めていた。憲法制定が行われるとき、国家語をグルジア語規定から削除されかけたことがあった。それをきっかけに民衆は大きなデモを起こし、憲法改正は免れた。1978年4月14日に起こったこのデモを記念して、毎年4月14日はジョージア語の日に制定されている。

 80年代はアプハジア戦争や、南オセチア紛争が勃発。ソ連から独立後の90年代は、初のグルジア大統領となったズヴィアド・ガムサフルディア派とそれに反対する人たちの間で内戦が起こり、国内が大混乱に陥った。民衆はとりつく島もないような、憂慮に堪えない時代を送り過ごしていったのだと思うと、地面が揺らぐような圧迫感に襲われた。

 足を少し折り曲げて横にならなければ収まらない、箱のようなベッドで眠ることにも慣れたころ、リリーさんは私のことを「ダラガヤ」と呼んでくれるようになった。ロシア語で“高価”という意味で、愛する人や親しい相手の呼称である。私はそう呼ばれたとき、胸のすく思いがして、彼女の心に受け入れられる存在になったのだと思うとうれしかった。

 彼女がダラガヤと呼ぶ人はもう一人いた。彼女の孫である。シャイであいさつを交わすくらいの機会にしか恵まれなかったが、大学生で画家を目指しているという。時折、大きな画材道具を抱えてやって来て奥の部屋にこもり、黙々とキャンバスに向き合っている。ベラベラとおしゃべりするわけでもなく、リリーさんの近くでただ絵を描き続ける控えめな優しさが好きだった。

 リリーさんの家での滞在日数に比例して、食事時に交わす会話の時間はどんどん長くなっていった。その日にあったそれぞれの出来事や、彼女が生きた時代の国の混乱についての話も多かった。ジョージアとは無縁の地から来た人間である私には、身内や友人には話さないようなことを吐き出せたのかもしれない。
 「あなたって不思議な人ね。私、あなたには何でも話してしまうわ。普段は自分の気持ちや昔の話をベラベラ人に話すことはめったにないのよ」

 私がリリーさんの家を去る日も、彼女のいでたちは清楚だった。白髪は艶やかで、その美しさを引き立てるような真っ赤な口紅を引いていた。タクシーに乗り込む前にフルシチョフカを見上げると、3階の窓からリリーさんがいつも見送るように私を見つめている。その顔には、初めて会ったときと同じような戸惑いと少しの悲しみの表情が見えた。

 リリーさんの家での滞在を無事終えたことを、タマルさんに電話で御礼とともに伝える。
 「すてきな女性だったでしょ、リリーさん」。タマルさんは、私がリリーさんとの時間を充実して過ごせたことに喜んでいる様子だった。その後のタマルさんとの会話で、リリーさんは夫を戦いで亡くしていたこと、私が寝泊まりさせてもらっていた場所は彼女の最愛の息子さんの部屋で、彼は思春期に交通事故で亡くなったことを知った。

 整った装いのリリーさんの佇まいが頭に浮かぶ。悲哀の底を舐める出来事に、ひとりで静かにその運命を悲しんだ彼女。一つのほつれにすべてが崩れて人生の不幸に飲み込まれてしまぬよう、ピンと張らえた糸のように、しっかりと生きていこうとする彼女。身だしなみを整えることは、リリーさんにとって一日一日を生き抜いていくための、心の碇だったのかもしれない。(つづく)

(写真:ERIKO)

【WEBサイト・ちきゅうの暮らしかた】http://chikyunokurashi.com/profile/
【Youtube ERIKOチャンネル】https://www.youtube.com/user/erikok1116
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【エリコ】
鳥取県米子市生まれ。世界のさまざまな地域で現地の人びとの家庭に入り、生活を共にし、その暮らしや生き方を伝えている。ラテンアメリカ全般(25カ国)、ネパール、フィンランド、サハ共和国、イラン、スペイン、パラオ、カルムイク共和国など約50カ国にて106家族との暮らしを体験。とっとりふるさと大使。米子市観光大使。著書に『ジョージア旅暮らし20景』(東海教育研究所)、『暮らす旅びと』(かまくら春秋社)、『せかいのトイレ』(JMAM)、『世界の家 世界の暮らし①~③』(汐文社)など。NEPOEHT所属(モデル)※写真:KATUMI ITO
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