これらをスケッチしながら、つらつらと考えたことはふたつあります。ひとつは平生のわたしの「見ているつもり」がただ単に対象を情報に置き換えているだけだということ、そしてもうひとつは、わたしにとっての俳句が、情報化によって逆説的に失われてしまった世界の面影に触れ直す手立てであるということです。あなたからの手紙に「古楽器の不安定さを弱点ではなく、一つの魅力として生かしていくこと。これは社会の中での人同士のあり方にもつながっていきます」とのくだりがありましたが、情報に置き換えるといった作業はまさに安定への依存ですよね。それは生活の上で欠かせない能力ではあれど、ものづくりの場面ではときに邪魔となる。なぜならものづくりの感動は、あらかじめ想定したイメージを裏切るところに生じるのですから。
この世界は、社会の側が描き出すそれであれ、個人の内に秘められたそれであれ、いつも同じ構図に固まりがちで、あざやかに情報化された言葉も、したたかに内面化された言葉も、都合のいいイメージを縫い合わせた映画にすぎなく思えてしまう瞬間がわたしには日に一度くらい訪れます。そんなときは瞳から曇ったコンタクトレンズをとりはずし――そうするとイメージの縫い目をほどいた気分になれるのです――マリー・ローランサンの絵画みたいにぼやっとした物の影に囲まれて休息をとるようにしています。この休息は、社会や個人の癖になった構図を初期化・再編集するいとなみであるという点で、あなたの書く「もと来た泉を再訪する」儀式に通じているかもしれません。
コンタクトレンズは長く使用していても違和感の消えない道具です。レンズをつけているときは社会の〈見え方〉に自分を補正している、つまり個人を名乗りつつも世間に乗っ取られている心持ちがしますし、片やレンズをとりはずしたときは、柔らかな物影がわたしをとりまき、夜空には3つの月がふわりと重なりあっていて、ああ、この不安定さこそ本当の日常だと心からほっとします。ただこの本当の日常をそのまま俳句にすると、往々にして非日常だと受け取られてしまうのだけは厄介です。言うまでもなく、身体にそなわる不安定さとは誰にとっても存在の基底を成すものであり、さらには「社会の中での人間同士のあり方」へと広がる話題でもあります。というのも、より少数派に属する身体の都合を抱えた人ほど、そのオリジナルな日常に対する周囲の無理解にとまどう機会が多いからです。
ただオリジナルといっても、たとえばわたし自身、3つの月がある世界を語るにふさわしい言葉を身につけているかといえば決してそうではありません。また俳句という手法の中でいかに自由にふるまうかについてもつねに模索の中にあります。とはいえ知らない国を旅するように、あるいは新しい言語を学ぶように、3つの月がある世界のあちこちを言葉でまさぐってみるのは、日々の楽しい稽古です。そういえば、あなたの手紙には「一番好きなのが稽古です」ともありましたね。一般に稽古とは安定性をはぐくむ行為だと思われがちです。しかし本来は、個人の癖をいったん解きほぐし、みずみずしい不安定さを受け入れて、そこから安定性に代わるあらたなあり方を汲み上げることこそが稽古なのだと思います。
思い返せばこの一年、ふだんは口にしないあれこれを綴ってきました。古典にあらわれる〈見え方〉は、しばしば現代人からすると奇異で非日常的に感じられますが、無理に意味を理解しようとはせずにただ耳をすましていると、それらがリアルさを帯びる文脈がふっとひらめく瞬間がある。このひらめきの感覚が古典を読む面白さのひとつです。それと同じように、社会や人間に対しても耳をすまし、連句のごとく身を添わせる中で、エコロケーション(反響定位)としての俳句がひらめいたなら、わたしにとってこんな愉快なことはありません。とりわけ未来が予想しにくい現状だからこそ、折にふれて補正のない知覚へと立ち返り、不安定さという自然を楽しみ、打てば響く角度から逸れた感覚や、無意味にみえる言葉の仕草などをさまざまな弾圧から守ってゆきたい――そんなふうに思いつつ、わたしはいまから台所で黒豆を煮る所存です。
ちなみに黒豆は朝ごはん用です。ここ半月ほど、わが家の朝は小倉トースト風のパンとダージリンで始まります。パン・ド・カンパーニュを焼いて、はちみつを塗って、その上に黒胡麻の生ペーストを塗って、ただ柔らかく煮ただけの黒豆をたっぷりのせるのです。さらにそこへフランボワーズやブルーベリーをのせてもおいしい。ただの煮豆はサラダやおやつ、なんにでも混ぜられるたいへん大家族向きの保存食だと思いますゆえ、毎日6人分のごはんをつくる須藤家の料理長に謹んでお伝え申し上げます。
小津夜景
(写真提供:著者)
――2019年4月にスタートした小津夜景さんと須藤岳史さんの連載「LETTERS 古典と古楽をめぐる対話」が、今回で最終回となりました。南フランスのニースに住む俳人の小津さんと、オランダの古都ハーグで暮らす音楽家の須藤さんが、書簡の往復を介して続けた言葉と音をめぐる思索の旅。ヨーロッパ生活の四季折々の話題にも触れていただいた連載は、終盤によもやの展開となり、世界に広がったCOVID-19の感染拡大によって、それぞれの町がロックダウンした暮らしの中でお便りを綴っていただくことになりました。
しかし、そんな中でも日課である稽古、表現と向き合う暮らしを伝えるお手紙は、二人のしなやかな芯の部分としてある言葉や音への想い、その深さが、日本で不安な日々を送る私たちにも、海を越えてともし灯のように伝わってくるものでした。
またいつの日か、ご登場いただけることを願って、ヨーロッパの地で活躍されるお二人に注目していきます!(編集部)【小津夜景日記*フラワーズ・カンフー】
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