室町時代から600年余り受け継がれてきた狂言。元NHKアナウンサーの高橋美紀子さんはこの伝統芸能のお稽古を、なんと67歳から始めました。以来十数年、小学生から90代までの“同好の士”とともに奮励努力。社中生徒の年に1回の「おさらい会」で能楽堂の舞台に立ち続け、今年(2021年)8月にはその体験を一冊の本『狂言十番 私のお稽古帖』(めでぃあ森)として世に送り出しました。
年齢を重ねてからの新たな挑戦のエネルギーの源は何か? なぜ狂言だったのか? 2回にわたって聞きました。
人生100年の最終楽章に狂言を
高橋美紀子さん
旅好きの夫に合わせて、仕事を辞めたのが65歳の春。でも人生100年の時代です。何かモチベーションを保てるものがないと、時間を持て余してしまうのではないかという思いがありました。
そんなとき、たまたま先輩に誘われて見学、体験したのが狂言のお稽古だったのです。『木六駄(きろくだ)』という演目でしたが、大蔵流狂言方、大藏吉次郎先生の声の力に、とにかく圧倒されました。吹雪の中、荷を積んだ12頭の牛を連れて山道を行く太郎冠者(たろうかじゃ)。険しい道、頬を打つ雪、吐く息の白さ……そんな情景がありありと浮かんだのです。登場人物の感情はもちろん、時代や風景までも声で描ける芸の素晴らしさに大きな衝撃と感銘を受けました。
思えば40年前、夫の転勤でシンガポールに滞在していたとき、多様な民族との暮らしの中で、私は自分の生まれ育った国の文化や歴史にいかに無知、無関心であったかに気がつき、がくぜんとしました。そのときの思いを引きずっていたことも、狂言に飛びついた一因になったと思います。
中世の人々のおおらかさに魅了 大藏先生の元でお稽古を始めて14年あまり。「よく続いたね」と言ってくださる人もいますが、続けられた理由の一つは、狂言が本当に面白いからなんですね。狂言は室町時代から続く喜劇ですが、中世の人々の生き方のおおらかさに強く魅かれます。私が習っている大蔵流には演目が200曲ほどあって、代表的なキャラクターは主人に仕える太郎冠者ですが、強い女房や弱気な夫、間抜けな詐欺師、お人好しの主人など多彩な人々が登場します。そこには現代にも通じるさまざまな笑いが描かれています。
狂言は言葉やしぐさであらゆることを表現するせりふ劇で、一つひとつの語りに深い意味があります。演じる際には、「そのとき主人公はどう思ったのか」「なぜそう言ったのか」といった心の内を読み解き、表現しなければなりません。観ているだけではつかめなかった言葉や行動の深い意味がわかると、さらに興味が増してきます。
たとえば、『縄綯(なわない)』という演目があります。借金のカタに売られた太郎冠者が、だまされたと知って新しい主人に反抗するという話なのですが、主人と太郎冠者の会話から、だまされた人のあわれさや、使われる身の悲しさがひしひしと伝わってきます。一方、演目によっては弱い立場の太郎冠者が主人よりずっと知性があったり、“してやったり”のどんでん返しがあったりする。本当に面白いんです。
お稽古は日々の暮らしの柱
憧れのおんな装束(しょうぞく)をつけた高橋さん
「新しいことを始めるのはハードルが高い」という人がいるかもしれませんが、私は若いころから、どんな小さいことでも初体験が大好きでした。好奇心旺盛で、少し“おっちょこちょい”なのかもしれません。「今ここで、こんなことをしたら周囲の人がびっくりして笑うだろうな」なんてひょいと考えるとうれしくなって、とんでもないことをしたりして(笑)。
もちろん、できないことも苦手なこともあります。でも、やりたいと思ったことに挑戦するほうが楽しいと思いませんか?
残念ながらここ数年は新型コロナウイルスの感染拡大で思うようにはできないことも多々ありますが、私にとって狂言のお稽古とおさらい会は大きな目標で、日々の暮らしの柱になっています。「今日はお稽古があるし、覚えなければいけないことがあるから、旅行はそれが終わってからね」なんて、申しわけないけれど夫の希望は後回し……。狂言は今や、私の人生になくてはならない存在なのです。
――次回(後編)は、狂言のお稽古に悪戦苦闘する日々とその楽しさについて語ってもらいます。(構成:川島省子)