悩みや困難にぶつかると、ふと古典を開きたくなります。でもちょっと敷居が高い……そう思っていたら、「19世紀文学には、少しライトで古いものも読んでみたい人たちにぴったりな知られざる作品が多くあります」と、この時期の日本文学を専門とする東京大学の出口智之准教授が教えてくれました。それらは、教科書に載っているような誰もが知っている作品ではないけれど、当時の人々に愛読され、時をこえても変わらぬ人間の本質や業をあぶり出す作品たち。さあ、出口先生の案内で19世紀文学の隠れた名作への扉を開けましょう! * * * * * * * * * * * * 読書好きの人なら、きっと一度は「古典」と呼ばれる名作に挑戦しようと思ったことがあるだろう。そしてたいてい、読みきれずに挫折したことがあるだろう。途中まで読めたのならまだいい。買ってはきたが積ん読のままになっている本、もっと言えば書店で手に取ってみたものの、ちょっとページを開いて書架に戻してしまった本など、たくさんあるに違いない。
わたくしだってそうだ。「ギルガメッシュ叙事詩」はおもしろかったが、おなじ詩形式でもホメロスも「神曲」もなじめなくてまるでだめ、「古事記」のサイズ感はちょうどよくて好きだけれど、「史記」は長すぎて途中で投出してしまった。「源氏物語」だけは、日本文学を学ぶ以上はと一念発起し、大学院時代に一夏かけて読み通したが、意味のわからないところ(そんなところばかりだった!)は全部飛ばしたうえ、もうほとんど忘れてしまったから、はたして読んだうちに入るのかどうか。翌夏は「南総里見八犬伝」に挑戦し、こちらは意味はよく通じても、登場人物が多すぎ、誰が誰だかわからなくなったからポイである。
こっちが不勉強なのだと言われればそのとおりで、もうちょっとおおきくなったら読もうと、いつまでも子どものようなことを考えている。その一方で、年を重ねた始末の悪い図々しさも生れてきて、いくら名高い古典だからといって、全部が全部自分の好みにあうわけはないと開き直るようにもなった。長すぎるとか、文章が難しすぎるとかは言いわけのしようがないが、まるで興味を感じられなかったり、読了はしても苦痛で苦痛でしかたなかったりした作品は、少なくとも今の自分の好みにはあわないんだ。だいたい、あらゆる時代のあらゆる文化圏のあらゆる形式の文学作品を、みんな好きになれるわけないじゃないか。
そう思いはじめると、いわゆる文学通や読書人たちに好まれる作品、あるいは難解な作品とは、概して相性が悪いことに気がついた。わたくしの専門分野の一つである幸田露伴は、日本近代文学のなかでは難解の代表格みたいに言われるが、難しさの種類が違うからそれはまた別。例外はいくらもあるが、だいたい20世紀の著名作には共感できないものが多く、フランスはなるべく敬遠で一番好きなのは英文学、特に物語性の豊かな小説がよい。怒りや社会批判を前面に出したり、思想的・実験的だったりする作品は総じてつらく、大衆に広く愛された作品のほうに心が惹かれやすい。
イラスト:楓 真知子
そういうわけで、本格的に文学が好きな友達には評判が悪く、勧めてもたいていは鼻で笑われるのだけれども、だからこそもう少しライトな文学ファンで、でも少し古いものも読んでみたいと思っている方にはぴったりなんじゃないかと、そんなに遠くない古典である19世紀文学から、個人的に好きな作品を選んで紹介してみたい。それも、「嵐が丘」「戦争と平和」「若草物語」と誰もが知る傑作を並べるのではなく、あまり一般に読まれてはいないけれど絶対おもしろい隠れた名作を。安心してください。マラルメはまず評論「ディヴァガシオン」
※でその文学観を把握せよ、みたいな小難しいことはけっして申しませんが、でも読み終えればちゃんといっぱしの文学通を気取れます。
と言いつつ、のっけから「隠れた」どころか超有名作で恐縮なのだが、まずはジェイン・オースティン「高慢と偏見」を取上げたい。初回は前口上があり、連載を上下に分けてもどうしても分量が押してしまうので、細かな作者紹介や解説不要の傑作ということでご了承願う次第である。と同時に、わたくしが最も好きな文学作品の一つであり、やっぱりこれを外すわけにはゆかない。おりにふれて人に勧めているところであり、今回も紹介の筆を執れるのが楽しみだ、というあたりで次回に続きます。(つづく)
※編集部注:ステファヌ・マラルメは19世紀フランスの詩人。著作「ディヴァガシオン」は文学・演劇にまつわる評論集。