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魅惑の19世紀文学案内
東京大学大学院総合文化研究科 准教授
出口智之
第2回 「マンク」輝きを放つ華麗な悪の魅力
 前回ご紹介したジェイン・オースティンに、「ノーサンガー・アビー」(1817)という作品がある。主人公キャサリンは平凡な田舎の少女だが、大の小説好きで、自分も小説のヒロインのような経験がしたいと夢見ている。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを読んでのめりこんだ男の子が、乱歩のらの字も知らない友達を無理に説きつけ、ぽかんとした顔の〈団員〉たちと一緒に〈怪事件〉を求めて近所を探し回る、あれである(筆者です)。小説がまだ軽蔑されていた時代、それだけでもいささか問題児なのだが、何しろキャサリンが読みふけるのはゴシック小説で、しかも折よく田舎のお屋敷に招待されたから、さあ大変である。

 ゴシック小説とは、日本ではあまり知られていないが、18~19世紀の英国で大流行した恐怖小説である。中世ゴシック風の古城や僧院を舞台とし、暴君、聖職者、良家の青年、身寄りのない高潔な乙女、恐ろしい盗賊たちといった人々のまわりで様々な怪奇と幻想が巻き起るのが定番。キャサリンが招かれたAbbeyとは、もとは修道院だった大邸宅だからまさにうってつけで、すっかりヒロイン気分の彼女は喜び勇んでお屋敷に赴くが……と、あとは作品を読んでほしい。こちらはあくまで明るく楽しい、ゴシック小説のパロディである。
 キャサリンが愛読するのはアン・ラドクリフ「ユードルフォの謎」(1794)で、初期ゴシック小説の傑作である。美しい南欧の風景描写、古城に暗躍する悪漢と怪異に怯える乙女、繊細に綴られる情感など、尽きせぬ魅力を湛えていてぜひお勧めしたいのだが、邦訳がないのがネックで、編集者さんからそれはどうも……と言われてしまった。それならばと、同作と双璧をなす傑作、マシュー・グレゴリー・ルイスの「マンク」(1796)を選んだ次第である。かのサド侯爵が称賛した問題作で、あまりに刺激が強すぎ、ちょっとキャサリンには読ませられない。

イラスト:楓 真知子


 マドリードの修道院長で敬虔な禁欲生活を送るアンブロシオは、市中の崇敬を一身に集めているが、その心底には自身も気づかない欲望の炎が燃えていた。ある時、彼を慕うあまり男装して修道士となったマチルダから思いを打明けられ、その魅力に屈してついに罪を犯してしまう。ところが、すぐに彼女の肉体に飽きたアンブロシオは無垢な美少女アントニアに心を移し、勧められるまま黒魔術に手を染め、やがて殺人、監禁、陵辱と悪の道を転がり落ちてゆくのだった。
 一方、もう一人の主人公である侯爵レイモンドは、旅先で招待された城の姫、アグネスと恋仲になる。修道女になる定めだった彼女は自分を連れて逃げてくれるよう頼むが、試みは失敗し、すぐにマドリードの尼僧院に入れられてしまった。再度の救出計画もアンブロシオに露見したうえ、アグネスの妊娠まで発覚し、体面を潰されて怒り狂った尼僧院長は残酷な折檻をはじめる。アグネスの兄でアントニアを恋するロレンゾは、二人を追って問題の修道院・尼僧院に迫るが、すでに悲劇は取返しのつかぬところまで進んでいた…。

『マンク』マシュー・グレゴリー・ルイス著、井上一夫訳(国書刊行会)。2011年に映画化された

 僧院や地下墓地、古城などを舞台とし、恐怖、悪徳、欲望、官能、破戒、虚栄、嫉妬など多彩な暗黒の感情を次々に繰出す「マンク」の煽情性と背徳性は、たしかにゴシック小説の一極点である。超自然的現象を拒否する「ユードルフォの謎」が、怪異に理性的な謎解きを与え、むしろ繊細な情感表現によって読者を惹きつけていたのに対し、本作は血まみれの修道女の幽霊や変幻自在の悪魔をためらいなく登場させ、その趣向は徹底して過激である。出版直後には囂々たる非難が浴びせられたというが、それはしかし本作の華麗な悪の魅力がひときわ輝いていることの証左だろう。とはいえ、決してどぎつい色彩で読者を眩惑するだけでなく、謎とスリルがほどよく配された二つの物語を往還しつつ、明確で力強い文体によって読者を牽引する巧みな技法のうえに本作は成立っているのであって、その文学表現はきわめて洗練されているのだ。

 ゴシック小説はその後、メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」(1818)、R・L・スティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏」(1886)、ブラム・ストーカー「ドラキュラ」(1897)と、名だたる英国ホラーの傑作群を生み出した。その豊かさには圧倒されるばかりだが、21歳で「高慢と偏見」を書いたオースティンに輪をかけて、本作を書いたルイスがまだ19歳だったことを考えれば、この時期の英作家たちの早熟もまた驚くほかない。(つづく)
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【でぐち・ともゆき】
1981年愛知県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は日本文学。明治時代における文学、文人のネットワーク、文学と美術の交渉が研究テーマ。著書に『幸田露伴の文学空間』(青簡舎)、『幸田露伴と根岸党の文人たち』、編書に『汽車に乗った明治の文人たち』(ともに教育評論社)がある。
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