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書を持って、旅に出る?
重なり合う旅心 キュレーター・アートライター
林 綾野
リレーエッセイ
 さあ、旅支度をしよう。お気に入りのトランクを引っ張り出し、パスポート、外貨、手帳、洋服、化粧品、スリッパを選ぶ。最後にどんな本を持っていこうとゆっくり悩む。いつだって、そんなふうに旅に臨めたらどんなにいいだろうかと思うのだ。経験のある方も多いと思うが、実際に旅に出かける前というのは、たいていはばたばたとしている。出発前夜までろくに支度もせずに用事や仕事に追われ、本をゆっくり選ぶなんてことはできないまま朝を迎えることになるのだ。

 私の旅は、誰かしら画家の足跡を追うという目的が先立つことが多い。これまで、ゴッホやモネ、ロートレックやフェルメールなど画家ゆかりの場所を訪ね歩いてきた。そんな旅にはいつも「使命感」がつきもので、なかなか心が安まらない。日記や手紙など画家たちの資料をどっさり携え、現地に着く直前まで、飛行機の中でも電車の中でも、そしてホテルのベッドでも本のページをめくることになる。

 そんな私の旅路を心底慰めてくれたのが、画家、エミル・ベルナールが書いた『回想のセザンヌ』である。以前、本を書くためのリサーチで、セザンヌの故郷であるエクサンプロバンスを訪ねたことがある。その時の旅は、ともかくセザンヌが暮らしていた、あるいはアトリエを構えていた所に足を運んでみる、上手くいけば絵を描いた場所に行ってみようというもの。セザンヌゆかりの地、つまり「画家の現場」をできる限り押さえようというもくろみだった。その実、パリだけでもセザンヌに関連する場所は20か所近くあり、当時の住所を元に場所を特定していくのは思いのほか骨が折れた。好奇心と共にはじまった旅も中盤には心身共にすり減っていった。

 そして旅も終盤、画家の故郷を訪ねるため、パリからエクサンプロバンスに向けて汽車に乗る日がやってきた。ちょうど秋の深まった頃で、南フランスにはミストラルと呼ばれる突風が吹き荒れる真っ最中。旅の途中、風邪を引きかけていた私はすっかり体調を崩し、到着した日はホテルで横になり、窓から青い空をぼーっと見つめていた。たった一人南フランスまで来たのに町を歩くこともできず、疲弊感と共に悲しい気持ちが押し寄せてきた。窓から見える町は、突風に木の葉が舞い、誰しもが足早に歩いていく。どこかよそよそしい町の様子に、ここに自分の居場所はない、そんな孤独感が急におそってきたのは、体調不良のためだったのだろうか。

 気を取り直して、私は本を手に取った。エミル・ベルナール著『回想のセザンヌ』。1953年に出版されたこの本は、旧字体で綴られている。ポンタベン派の画家としてしられるエミル・ベルナールがエクサンプロバンスにセザンヌを訪ねた際の回想や手紙が収められた古い本である。

イラスト:古知屋恵子
 1904年、ベルナールはエジプトに旅した帰り道、マルセイユの港に降り立った。南フランスに立ち寄ったこの機会に、かつてより敬愛していた画家セザンヌを訪ねる決心をする。気むずかしい画家として知られるセザンヌは、意外な程にベルナールを温かく迎え、エクサンプロバンスのローブの丘にあるアトリエで共に筆を取り絵を描くなど、二人は特別な時間を過ごすのだった。時に癇癪を起こすこともあるセザンヌだが、写生や食事を共にしながらベルナールはこの偉大な画家をできる限り理解しようと心を尽くす。自らも芸術家であるこの青年の心の底には、セザンヌへの敬慕と芸術そのものに対す深い愛情があった。慣れない町で見知らぬ人に囲まれながらも思索を重ねるベルナールの記述をたどるうちに、後ろ向きになりかけていた私の旅心はすっかり元気を取り戻していた。

 その後、ローブのアトリエやセザンヌの生家、家族の家、一人で絵を描いた石切場などを見てまわった。時々、道に迷ったり、鬱蒼とした山の中を一人で歩きながらも、充実した良い心持ちでいられたのは、あの本のおかげだと今でも思う。セザンヌとベルナールが過ごした当時の様子、その絵をなかなか認めてもらえなかったセザンヌの葛藤。エクサンプロバンスの地で、私なりのセザンヌへの実感を持つことができた。どこかよそよそしいこの町の様子も記憶の中の大切な1ページとなったのだった。

 今から思うと、私はベルナールに自分の気持ちをすっかり重ねていたのだろう。お互いのといってはおこがましいが、私たちはおそらくセザンヌに対する敬愛の念がぴったりと重なり合ったのではないだろうか。なかなかゆったりとした気持ちで本を選ぶことができなくとも、自分の心の多くを占めているものと繋がっている本も案外身近にあるものだ。それ以来、旅する気持ちが重なり合うような本と、もしまた出会うことができたなら共に旅したいといつも夢見ている。

『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳(岩波文庫)
林さんとともにフランスを旅した本。
写真提供:林綾野






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【はやし・あやの】
1975年神奈川県生まれ。キュレーター、アートライター。美術館での展覧会企画、美術書の企画、執筆を手がける。新しい美術作品との出会いを提案するために画家の芸術性と合わせてその人柄や生活環境、食への趣向などを研究、紹介。近年、新たな試みとして絵本仕立で画家の人生を紹介する「画家のものがたり絵本」シリーズを企画。著作に、同シリーズ『ぼくはヨハネス・フェルメール』『ぼくはクロード・モネ』(美術出版社)、『ゴッホ旅とレシピ』『セザンヌの食卓』(講談社)、『江戸の食卓』(美術出版社)などがある。
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