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書を持って、旅に出る?
フィンランドの湖畔で読書 映画監督
荻上直子
リレーエッセイ
 私にとって、本といえば小説です。じっくり感情をこめて読むので、読むのは遅いです。自分の日常と離れ、物語の世界に入り込んでいくのが好きなので、小説以外の本はめったに読みません。夜は小説がないと寝付けないし、電車に乗るときに小説を忘れると、悔しくてたまりません。あまりに小説を読むのが好き過ぎて、7年前から図書館の隣に住んでいます。本はほとんど図書館で借ります。大きな本棚が家の隣にあるようなもので、大変重宝しています。ありがとう、図書館。

イラスト:古知屋恵子
 さて、20代のころ、かなり長い間アメリカに留学していたのですが、英語で小説を読むのが苦手でした。どうも頭に入ってこなくて何度も挫折しては、面白そうな小説があると読めもしないのにまた買って、という失敗を繰り返しておりました。ところが先日、英語であることを忘れるくらい夢中になって読んだ小説がありました。

 2013年夏、3週間ほど家族でフィンランドに滞在しました。事実婚の夫と、2012年に誕生した双子の女の子たちと共に一生で一度あるかないかの長期完全バケーションです。フィンランド旅行は初めてではなく、映画『かもめ食堂』を撮影して以来、たびたび訪れている大好きな国です。フィンランドでは湖畔のコテージを借り、その1日は朝起きたらゆっくり朝ご飯を食べ、本を読み、ビールと共に昼ご飯を食べ、ビール片手にまた本を読み、夕方になったらサウナに入り、湖に飛び込み、ビールを飲みながら夕飯を食べ、本を読みながら寝る、という感じ。そう、フィンランドにいるとビールと読書が進むのです。

 基本的にテレビは見ない、コンピューターは開かない、という課題を自分らに課せ原始的な生活を楽しむと、おのずとビールを飲み読書する時間が生まれてきます(夫はプラモデル作りのようですが)。なので、旅の前は何冊もの本を準備します。しかも普段は難しそうで手につけられないような本も、なぜかフィンランドでは読めてしまう。今回は3週間と長期の滞在。たくさん読めるぞ、とトランクに詰め込んだ本は、『鍵』(谷崎潤一郎)、『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)、『呪われた子他(バルザック幻想・怪奇小説選集)』(オノレ・ド・バルザック)、『ことり』(小川洋子)などなど、統一感は全く感じられないセレクションですがすべて小説です。

 その中の一冊が、アメリカ人の友人が勧めてくれた英語版の『ベル・カント』(アン・パチェット)でした。日本にいるときにチャレンジして、何度か失敗しています。数ページ読んで、やはり英語が頭に入ってこなくて。でも、フィンランドの湖畔の前では違いました。スーッと、静かな風のごとく文章が頭に入ってきて、気付けば小説の世界に浸っていました。

 とある小さな国の副大統領官邸で行われていた日本の大手企業社長の誕生日パーティーのさなか、テロリストに占拠されてしまい、やがて人質と犯人の間で心の交流が生まれてきます。テロリストのほとんどが貧しい子どもたちだとわかり、パーティーに招かれた世界的なオペラ歌手とその日本人社長との関係が、4カ月にもわたる拘束期間中に徐々に親密になってゆき、社長の通訳とテロリストのひとりである少女との間に愛が芽生え、テロリストである少年が、歌の才能を発揮し……。もう、読者の方が完全にストックホルム症候群に陥ってしまうのです。「テロリスト=悪」という単純な方程式ではなく、彼らもまた人間であるからこそ心を通わせていく、という過程が、リアルな音楽の描写の中で臨場感たっぷりに綴られ、いつしか小説の世界に入り込んでいるのでした。

 と、その内容は穏やかなフィンランドの景色とはかけ離れたお話でしたが、テレビもインターネットもない、人々の声や車の騒音もない、鳥と風の音しか聞こえないような環境であったからこそ、英語版であっても最後までこの小説にのめり込むことができたのかもしれません。

 何もすることがないと、本が読みたくなる。読めなかった本さえも、読めてしまう。同じような経験が昔ありました。1カ月半滞在したモンゴルで読んだ谷崎潤一郎の『細雪』。過去に何度となく挑戦したけれど、なかなか読み進めることができなかった長編小説。モンゴルの田舎町で何もすることがなかったので読めてしまい、その美しい文章に心酔し、読み終わるのが惜しいと思ったのでした。

 ショッピングもできない、評判のレストランにも行けない、テレビもインターネットもない、目の前につい泳ぎたくなるコバルトブルーの海もない、だけど、そんなものは必要ない。美しいフィンランドの湖畔のコテージで、鳥と風の音を聞きながら、ビールを片手に好きな本を読む。ああ、なんて贅沢な時間……。私にとっては極上のバケーションでした。

『Bel Canto』 Ann Patchett著。邦訳は、『ベル・カント』アン・パチェット著、山本やよい訳(早川書房)で出版されている





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【おぎがみ・なおこ】
1972年千葉県生まれ。千葉大学工学部を卒業後、南カリフォルニア大学大学院映画学科で映画製作を学ぶ。 2001年『星ノくん・夢ノくん』でぴあフィルムフェスティバル音楽賞、2003年『バーバー吉野』でベルリン映画祭児童映画部門特別賞を受賞。2006年に発表した『かもめ食堂』が大ヒット。2007年『めがね』を経て、2011年『トイレット』で芸術選奨新人賞映画部門を受賞。
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