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書を持って、旅に出る?
屈託から解放された明るさ、軽ろやかさ 作家
大竹昭子
リレーエッセイ
 大学時代、男友だちとタイの小さな島に行き、高床式の掘っ立て小屋のようなバンガローに泊まった。目の前は海。寝転がって本を読んだり、昼寝したり、泳いだりの日々。そのとき自分が何の本を持って行ったかは忘れたが、彼が持参したものははっきりと覚えている。谷崎潤一郎の『細雪』。四人姉妹が登場する阪神間が舞台の、タイとは何の関係もない大長編小説である。それを南島の浜辺で読みふける彼の頭のなかはどうなっているのかと大きな疑問符が灯ったが、案の定、しばらくして別れてしまった。

 旅に本は欠かせないが、読みたい本なら何でもいいというわけではない。これから訪ねる土地に心を駆り立て、その場所と自分を深く結びつけてくれるような本であってほしい。だから本選びには旅程を考えるのとおなじくらい慎重になる。

 仕事で青森に行くことになった。終わったら津軽を旅してみようと思い立った。そんなふうに出張のついでに1泊ほど延長して周辺を旅することが、当時はよくあったのだ。何の本を持って行こうかと考え、太宰治の『津軽』にしたのは、あきれるほどベタな選択だったが、それにはわけがあった。

 太宰治という作家がどうも好きになれずにいたのである。彼の小説は自分はだめな人間であるという告白の調子が強い。これは自分は特別な人間だと言っているのとおなじで、こういう偽悪は偽善とおなじくうっとうしいと思った。だが、このように感じるのは自分のなかに似たような屈託を抱えているからで、つまり自分自身を見ていら立っているということも薄々気づいていた。そういう幼い嫌悪感とそろそろ和解してもいいかもしれない。文庫版の『津軽』を荷物に入れて出かけたのは、そういう経緯からだった。

イラスト:古知屋恵子
 津軽では彼の生家を訪ねた。青森を出たのは午後だったが、列車の便が悪くて金木に着いたのは夕方近くだった。斜陽館は想像した以上に立派で巨大な建物で、なかを見学するのに時間がかかり、閉館ぎりぎりまで粘っても充分とはいえず、後ろ髪を引かれる思いで後にすれば、外はとっぷりと日が暮れて暗くなっていた。金木駅のホームはひと気がなく静かだった。見渡すかぎり平坦で目に映るものが何もなく、霧の彼方に列車のライトがぽつんと現れ大きくなった。津軽平野というけれど本当に真っ平らな平地だった。

 その夜、五所川原の宿に泊まって『津軽』を読みふけった。意外であった。これまで顔をしかめてきた太宰特有の屈折のない、実に晴れ晴れとした文章だった。本編はこのようにはじまる。
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」

 『津軽』は太宰が3週間かけて津軽を巡った旅紀行であり、小説ではない。だから「ちっとも信用できません」と言ったのは特定のだれかではなく、自分へのツッコミだ。自らが抱えている気取りや自意識を嗤い飛ばす覚悟のあることを冒頭で予告しているわけだ。リズミカルな文体からは、見る、歩く、感じるを徹底することで心が軽ろやかに明るくなっていくさまがにじみ出ている。

 地方の富裕な旧家に生まれた太宰は、その出自にコンプレックスを抱き、自己否定に創作の火種を見いだしてきたが、36歳のこの年に故郷の旅が実現したのは出版社の求めがあったからだった。頼まれて出かけた意味は小さくはなかっただろう。自分で計画したなら思いが過剰になるところが、依頼者がいるという枠組により軽快なスタートが切れたのだった。

 朝から酒を呑み、昔の知り合いに逢い、親戚の家を訪ねる。あい間に津軽の歴史も講釈しているが、「所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である」と序編で書いているとおり、あまりおもしろみはないので斜め読みしたって構わない。私自身、この文章を書くのに読み直したところ前半部はほとんど忘れていて、記憶にあるのはよく酒を呑んでいたことくらいだった。
 しかし、最後のクライマックスのところはちゃんと憶えていた。そしてはじめて読んだときとおなじように涙がすっと頬を伝った。すばらしい。放心するような澄明さがあふれている。

 太宰の母は病身で母親の役が務まらず、3歳から8歳まで彼はたけという名の子守りに育てられた。彼女はただ子どもを世話するだけの人ではなかった。本を読む楽しみを教え、ふたりでさまざまな本を読み合い、お寺の極楽地獄絵を使って道徳を教えた。そのたけがあるときいきなり目の前から消えてしまう。別の町に嫁にいくことになり、こっそりと去って行ったのだ。
 その思い出の人を小泊の家に訪ねるところが旅の最後である。理不尽な別れをして以来、一度も逢っていない。もちろん行くことも知らせていない。「金物屋の越野たけさん」ということだけを頼りに探し出す。

『津軽』太宰治著(新潮文庫)
 このあとどうなったかはこれから読む人のために書かずにおこう。ただ、涙と抱擁と歓声にあけくれた単純な再会シーンではなかったとだけ述べておこう。「ああ、私は、たけに似ているのだと思った」と彼は書く。自分のいまを形作ったものが、14歳で子守りにやってきたひとりの娘だったことに、太宰はそこで気づくのである。

 人や物との出会いを通して自分との対話がはじまるところに旅の真実がある。そのことをこれほど繊細かつストイックに伝えてくれる書物はほかにない。思わず涙してしまうのは、たけとの再会が感動的なためではなく、人が生きていくことの本質が無造作に投げ出されているそのありさまに心を揺さぶられるからなのだ。



◆大竹昭子さんの朗読&トークイベント〈カタリココ〉のご案内
 日時 5月28日(水) 19:00開演 
 会場 ボヘミアンズ・ギルド
 ゲスト 寄藤文平
 ※詳細はこちらをご確認ください。http://katarikoko.blog40.fc2.com/blog-category-1.html
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【おおたけ・あきこ】
1950年東京都生まれ。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆。小説に『図鑑少年』『随時見学可』『鼠京トーキョー』、写真関係に『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』『この写真がすごい』など。朗読イベント「カタリココ」を開催中。http://katarikoko.blog40.fc2.com/
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