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50歳で叙勲された、フォン・アッシェンバッハは、老いを感じ、自らの創作する感性を鋭くするためにミュンヘンからヴェネツィアに向かった。この気持ちはよく分かる。ゲーテも同じ動機で『イタリア紀行』を行っているからだ。アッシェンバッハのヴェネツィアへの旅の動機をを書くとすればこれですむのだが、マンはそれに30ページも費やしている。トーマス・マンが読みにくいと言われる由縁である。
ミュンヘンからイタリアに行くには真夜中に出る特急列車に乗るのがいちばんだ。寝ているうちに列車はアルプスを越え夜明けにはイタリアに到着する。アッシェンバッハはヴェネツィアに向かっった。長期滞在の予約ヴェネツィアの本島から渡し船で10分ほどのリドという砂州にあった。高級リゾートホテルの建ち並ぶ海岸沿いの離れ島だ。
アッシェンバッハはゴンドラの客引きの口車に乗せられてリドに渡った、そのゴンドラは無監察(いわば白タク)であって、アッシェンバッハをリドに降ろすと、料金も取らずにさっさと逃げ去った。仲間から通報があり、無監察ゴンドラは村八分にされてしまうので、違法ゴンドリエは逃げ出してしまったのだった。
予約したホテルは海が見晴らせ、野外テラスがある豪華なところだった。その日の晩餐には着飾ったイギリスの貴婦人や、フランス語を話すグループ、ポーランド語まで聞こえてきた。そして一団のポーランドからやってきた若い少女と少年たち。全体に貴族的・スノビズムが漂っている。
そのポーランド人の中の1人の少年の完璧な美しさに、アッシェンバッハは愕然とした。彼が文学や、音楽で追い求めてきた美学の神髄に通じるものがあったからだ。その少年は、もっとも高貴な時代のギリシャ彫刻を思わせる横顔を持っていた。ゆったりとした晩餐が優雅な雰囲気の中で始まった。残念なことにアッシェンバッハの席はポーランドの一団とは遠く離れていた。
食事中、彼は抽象的で超越的な思索を楽しんでいた。
「美しい人間が生まれるために一般法則があるのだろうか」
一般法則だって? 美しい者は素直に美しいとみなせばいいでないか。これは凡人の考えること。
翌朝、高級ホテルに特有のビュッフェ式の朝食だった。ポーランドの少年たちは遅れてやってきたが、昨日の美貌の少年は(タッジオという名だと後に知る)さらに遅れて食堂にやってきた。いわば真打ちの登場である。タッジオはアッシェンバッハにその完璧な横顔を見せて座った。
ヴェネツィアの、特にリドの気候は作家兼作曲家でもある男の心を保養地的に癒すどころか、ますます精神を悪化させるような気がした。早々に帰国を決意して、ホテルで荷物を纏めて中央駅に送り出した。ところが、駅員が積み荷の行き先を間違えてコモ湖駅宛てに積み込んでしまった。
アッシェンバッハはやむなリドのホテルへUターンする羽目になった。おかげで、タッジオとの接触のチャンスが増加した。話し合いが始まるに連れ、アッシェンバッハはますますタッジオへの異常とも思える思いを強めていく。これはやや悪徳の匂いのする少年愛だな。トーマス・マンはアッシェンバッハをグスタフ・マーラーと自分自身をモデルにしたと考えられている(決して公言はしていないが)。
ある日、アッシェンバッハはヴェネツィアのサンマルコ広場に出掛けた。いつもは観光客で賑わっている広場に奇妙に人影が少ないことに気付く。街中に不快な熱気が漂っている。聞くと、この熱気はアフリカから吹いてくるシロッコという熱風で、匂いは、そいつに乗ってきたコレラ菌の消毒剤の匂いでさぁ、とゴンドリエ。
コレラを恐れて、リドから1人去り2人去り、残されたのはアッシェンバッハとタッジオだけになってしまう。
コレラはアッシェンバッハを捉えた。しかしタッジオがいる限りアッシェンバッハは動かない。病のせいもあろうが、
「美こそが神聖なのだ」という、アッシェンバッハのタッジオという完璧な「美」へ賛仰によって動かない。そして従容として、リドの浜辺でコレラによる死を迎えた。
『ヴェネツィアに死す』がルキノ・ビスコンティによって映画化されたときタッジオを演じたのはビョルン・アンドレセンという少年だった。ビョルンが来日したとき韓流スター並みの追っかけがあったことは、記憶に新しい。
次号は全世界で2500万部の支持を受けたという『キャッチャーズ・イン・ザ・ライ』サリンジャーです。
まつしま・しゅんじろう●1942年岡山県生まれ。上智大学卒業。長年海外旅行雑誌などの取材執筆に従事し、訪れた国は約100ヵ国に達する。著書に『ショショニ族の魂』『鎖国をはみ出た漂流者』『ケルト紀行』『異国船漂着記』など。
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