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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第1回 モザイクの下で(下) (小津夜景より)


 水浴びに余念のないアヒルになごみつつ、沖へ目をやると、沖はいつものようにくすくす笑っていました。目を細めてさらに見ていると、沖はしだいに声をひそめ、しまいに無言となりました。音のないうなばらには、白い帆船がまるで大昔のできごとのように輝きながら点在しています。そしてその遡行したまばゆい時間のあわいをぬって、コルシカ行きの黄色い定期船が地平線の向こうへと消えてゆくのでした。
 そう、銀のすじといえば、半年ほど前に、李白研究者として知られる武部利男の文体をそっくり真似て、こんな漢詩を訳してみたことがありました。

      観幻  白楽天

    有起皆因滅 無暌不暫同
    従歓終作感 転苦又成空
    次第花生眼 須臾燭過風
    更無尋覚処 鳥跡印空中

      まぼろしとむきあう  白楽天

    このよにみえる ものはみな
    すべてほろびが みなもとだ
    からっぽさえも とどまらぬ
    たとえこのめを そむけても

    うれしいことも うつろえば
    むなしいものに なるだろう
    くるしいことも いつのひか
    うつろなものと かすだろう

    おれのめだまも だんだんと
    かすみはじめた うつしよの
    かぜにひかりが あおられて
    らんぷのきえて ゆくように

    もののゆくえを とうことに
    みきりをつけて ながめれば
    そらにはとりの とびさった
    ただひとすじの あとがある

 おぼえていますか、これを訳したとき、あなたは尾聯の「更無尋覚処/鳥跡印空中」に目をとめて、胡嶧「昆山夜泊舟中遣怀」のこれまた尾聯「空中鳥跡誰能記/万古由来一妄情」を教えてくれましたね。ふたつの句がともに「鳥跡」の語を含むことに気づいた私は、すぐさまこの語を調べてみました。そして、これが現存する最古の仏典『ダンマパダ』の「(心)空、無相、解脱に遊ぶときは、其人の行跡は尋ぬべきこと難し、猶ほ虚空に於ける鳥の跡の如し」から来ていることを知り、ああそうだったのか、と納得したのでした。
 胡嶧の叫ぶ「鳥跡は虚妄である」という真実。いっぽう白楽天の詩の核心は真実よりもむしろそれへのひそかな抵抗にあります。言うまでもなく、鳥の飛んだ跡というのは空に残りません。まただからこそ、原始仏教の時代から「飛ぶ鳥に跡なし」の光景は解脱に重ねられてきた。これにならい白楽天も、諸行無常の現実をながながと語った上で、もう一切を問わないと結論する。と、思いきやこの詩人は、おしまいの一句でその結論をぱっとひるがえし、実在しないはずの痕跡を空に描いてみせるのです。
 見えていない痕跡を、感じとれない奇蹟を、にもかかわらず在るとして生きること。銀のすじを思いつつ、型破りのモザイクを空に描くこと。私もまたモザイクを描きながら日々を暮らすひとりです。ただ、こういうのって信条めかして語ると、とたんにつまらなくなりますね。信条というのは、えてして人生を単純にする。見えないものを信じつつ、同時にそれを日々語りそこねること。たぶんそういったふるまいこそが夢との潔い距離感なのでしょう。

 さて。空と海の、そのあかるい現(うつつ)をめいっぱい楽しんだ私は、空港の停留所から帰りのバスに乗りました。最後尾に腰をおろしてメールを確認し、ウォーターボトルの水を一口含みつつ、海の見える車窓にそのボトルをかざすと、飲みさしの水はエーテルのような空(うつ)をしずかに湛えていました。

  椅子にゐてまどろみし後水差しに水あるごときよろこびに逢ふ  玉城徹

 夢見ること。目覚めること。この世界で、ふいのよろこびに出逢うこと。そういえば、キョクアジサシという種はまだ見たことがないけれど、彼らは北極と南極の両方で夏をすごす渡り鳥だから、つまり一年を光の中にいる時間がほかのどんないきものよりも長いってことになるんだなあ――そんなたのしい空想とたわむれながら、私は、長い歳月をかけてみずから思い描いた銀モザイクの空の下で、ウォーターボトルのまばゆさに目をしばたいていたのです。

小津夜景拝   


【小津夜景日記*フラワーズ・カンフー】
https://yakeiozu.blogspot.com/


(写真提供:著者)

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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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