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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第2回 耳は意味を探してしまう(上) (須藤岳史より)


 拝復。海の風と匂いが閉じ込められたお手紙ありがとうございます。
 言葉とは不思議なもので、本来は決して文字にならないはずのものが文字になってしまう。より正確に言えば、言葉に「翻訳」された風や匂いが、読み手のなかで再構成されて、漂い始める。そんな言葉特有の働きはとても面白いなといつも感じています。

 うちのそばにも海があります。2001年にオランダ王立音楽院への留学のため、海辺の街ハーグへ到着した時、最初に訪れたのがこの海でした。考えてみれば、今まで住んだことのある場所はどこも海のそばです。まよわずに海のすぐ目の前のアパートメントを借りました(隣には映画館もあったのです)。北海は、生まれ育った街の広い太平洋、そしてあなたの住む街の穏やかであたたかな地中海とは対極をなすような厳しく冷たい海です。風の強い日も多くて、そんな日にはカモメたちは風にさらわれそうになりながら空を横切っていきます。

 海を吹きすさぶ風は、たくさんの音を連れてきます。風の強い日のそれは腹の底に響くような轟音です。その音の嵐の中に浸っていると、だんだんと倍音が聞こえてきます。時には言葉になりかけの破片のようなものや、知っているけれど名前を思い出せない人の声のようなものが混じることもあります。全ては錯覚なのですが、そんな時、この働きの根源にあるもの、つまり良きつけ悪しきにつけ「ヒトの耳は意味を探してしまう」という事実を、望まざるともまざまざと突きつけられてしまうのです。

 「実在しないはずの痕跡」のお話を読んで、信じることについてしばし考えを遊ばせました。
 ものや人の名前(名詞)を私たちはしばしば忘れます。いとも簡単に、しかも突然。顔や形までありありと思い出せるのに肝心の名前が出なくて、あの人なんていったっけ? あれなんだっけ? とまるで空白に放り出されてしまったかのような気分になることも。反対に動きを表す動詞を忘れるということはほとんどありません。これは一体どういうわけなのでしょう?

 私見なのですが、そこには「無条件に信じること」あるいは「自分を明け渡してしまうこと」があるような気がしてならないのです。対象と名前が一旦結び付くと、疑うことなしに、そして自動的に名前が対象の代わりとなり、一つの生命を得ます。そのあとは、両者の結びつきをその都度確かめることなしに、その名前を使います。両者の結びつきは、何が起きているかわからないまま、いわばブラックボックスのなかで自動的に処理されます。だから、ふと忘れてしまったりもするのです。考えてみれば怖いことですが、しかし同時にそれは「無条件の信頼」の証であるような気がしてならないのです。そして無条件の信頼とは愛の別名であり、また信仰(僕は持っていませんが)の核心でもあるような気がしてならないのです。

 あなたのお手紙にあった、飲みさしのウォーターボトルが湛えるエーテルのようなうつの静かな佇まいと、玉城徹の〈椅子にゐてまどろみし後水差しに水あるごときよろこびに逢ふ〉から、この秀歌を思い出しました。

  晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて  葛原妙子

 秋に近い季節の夕方、薄暗くなってゆく光の中で酢の瓶が立っている。そんな情景を描写したシンプルな歌ながらも、その静謐さと存在感にはっとさせられます。この歌の破調、そして字あるいは句の欠落は「無音」を生み出しています。無から有が生まれるのか? という話は、宇宙や生命の話にも繋がってきますが、それはとりあえず置いておくことにして話を戻すと、その欠落との等価交換のように「ないこと」が「あること」として、つまり、酢の入った瓶ではなく、酢そのものが瓶の中で立っているという不思議な情景が浮かび上がってきます。定型のリズムは鼓動、歌の中の31の音は生命の温かみ。それが欠落することによって生まれる何か。そういえばオランダの17世紀絵画の主要ジャンルである静物画のことを「スティル・ライフ」と呼びますね。静かなる生命、時間からの脱出! よろこびの中での時間の忘却と、何かを失うことでの時間の忘却。無音の世界への危険な誘いは、逆に、いまある生の眩さへの慈しみと、その中での血の通った喜びを際立たせる。そんな風に感じます。

(つづく)


【須藤岳史 Twitter】
https://twitter.com/Artssoy

(写真提供:著者)

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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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