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美しいくらし
東京ぶらり老舗散歩 江戸文化研究家
安原眞琴
第7回 浅草通りの今、昔①
 日本の二大観光地と言うべき〈上野〉と〈浅草〉。でも、実はとても近い距離にあるのをご存知ですか。もし知っていても、歩いたことのある方は、ほとんどいないのではないでしょうか。第7回「東京ぶらり老舗散歩」では、そんな上野と浅草の間を散歩します。ルートはいろいろありますが、地下鉄銀座線の線路に沿って、その地上を歩きます。浅草に着いたら、夏の定番料理を、老舗らしい趣のある木造の建物で食べて、散歩と暑気の疲れを一気に払いましょう。

江戸の大火によって生まれた寺町

どぜう飯田屋(台東区西浅草)
 上野駅の改札口の1つに〈パンダ橋口改札〉というのがあります。正式には〈入谷改札〉と言いますが、愛称の方がよく知られています。〈パンダ橋〉とは、上野公園と浅草・御徒町エリアとをつなぐ大きな橋のことです。
 この改札を出て、パンダ橋を浅草方面に渡り、地上に降り立つと、〈浅草通り〉という広い通りに出ます。通称は〈仏壇通り〉。仏壇屋や仏具屋などが、浅草まで途切れることなく軒を連ねているからです。

 仏壇屋さんには、大小さまざまな仏壇が展示されています。仏壇は、外側は黒漆、内側は金箔になっていて、それだけでもピカピカと美しいのですが、お盆のシーズンになると、涼しげな絵が描かれた多数の盆提灯が、吊されたり置かれたりするので、さらに目が惹きつけられます。

仏壇屋や仏具屋が連なる浅草通り
 現在のお店の数は、およそ50軒です。日本一の仏壇問屋街とも言われています。でも、どうして仏壇通りが出来たのでしょうか。きっかけは、江戸初期の〈明暦の大火〉にまでさかのぼります。徳川幕府は、大火で焼き尽くされた江戸の町を復興するときに、町を大改造しました。

 その際、この辺りが〈寺町〉にされたのです。つまり、上野の寛永寺と浅草の浅草寺に挟まれたこのエリアに、江戸中から寺院が集められたのです。それに伴って、お寺の必需品である仏壇や仏具の店も集まってきて、仏壇通りが形成されたようです。


 明暦の大火後に移転してきた寺院のうち、最も有名なのは〈東本願寺〉でしょう。正式には、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺と言い、浄土真宗東本願寺派の本山です。現在の寺域は4250坪ですが、神田から移転してきた当時は1万5000坪もあったそうです。

浮世絵師たちの墓

 東本願寺に限らず、江戸時代の寺町には、大寺院が多かったようです。明治政府によって、寺院が都心から郊外へと強制的に移転させられたとき、それに従わずに残った寺院は、その後の道路拡張や区画整備などのあおりをうけて、縮小を余儀なくされました。

 また、この辺りは、大正12年の関東大震災と昭和20年の東京大空襲の影響をまともに受けたので、堂宇も灰燼に帰しました。そのため、残ったお寺の多くが戦後の建物であり、鉄筋コンクリート造りであることも少なくありません。

 でも、そんなお寺から、江戸の雰囲気をたどることができます。仏壇通りの〈松が谷一丁目〉という交差点に行ってみましょう。この辺りには、〈葛飾北斎〉〈喜多川歌麿〉〈歌川広重〉という有名な浮世絵師のお墓が集中していたエリアでした。

 喜多川歌麿の墓がある〈専光寺〉と歌川広重の墓がある〈東岳寺〉は、それぞれ世田谷区と足立区に移転してしまい、現在残っているのは、葛飾北斎の墓がある〈誓教寺〉だけです。

誓教寺には葛飾北斎が眠っている
 その誓教寺は、交差点を右折した、左側の2軒目くらいにあります。境内もかなり縮小されたようです。正面に本堂があり、右手が墓地になっています。北斎のお墓は、墓地の入口付近にあり、銅板の屋根が付いた木製の小さな祠の中にあるので、すぐに見つけることができます。

 墓石には「画狂老人卍墓」と彫られています。「画狂老人」も「卍」も北斎の画号です。右側面には、読みにくいですが、「ひと魂でゆく気散じや夏の原」という辞世が刻まれています。本堂の前には北斎の胸像やゆかりの碑もあるなど、見どころも満載。北斎は90歳で亡くなるまでの間に、93回も引っ越しをしたと言われています。ゆかりの地をすべて回るのは難しいかもしれませんが、間をはしょって、埋葬地である誓教寺と、2016年11月に生誕地に開館した〈すみだ北斎美術館〉(墨田区亀沢)に行くというツアーならできそうですね。

東京で最も古い稲荷社へ
 実のところ、〈仏壇通り〉最大のランドマークは、仏壇屋でも寺院でもなく、〈下谷神社〉なのです。明治時代の神仏分離以前には、〈下谷稲荷社〉と呼ばれていました。この辺りの地名〈稲荷町〉も、地下鉄銀座線の〈稲荷町駅〉も、すべてこの神社に由来します。また、奈良時代に創建された、都内で最も古いお稲荷さんでもあります。

 はじめは上野の山、つまり現在の上野公園にありましたが、江戸時代に寛永寺が創られたため、仏壇通りに移転しました。現在も、上野駅のすぐ近くの、仏壇通りの右手にあります。通りに面した大きな赤鳥居が目印です。黒地に金色で「下谷神社」と書かれた鳥居の扁額は、東郷平八郎が書いたものです。

下町で一番早い夏祭りが行なわれる下谷神社
 この赤の鳥居をくぐると石の鳥居があり、その先に社殿があります。関東大震災のときに焼失しましたが、東京大空襲では奇跡的に焼け残りました。そのためでしょうか、街中にありながら、木々が鬱蒼としていて、現代とは思えない古めかしい趣があります。また、社殿脇の昼なお暗い裏参道には、なぜか2羽のアヒルも暮らしています。

 この神社には、大きな特徴が2つあります。1つは、都内で1番早い夏祭りが行なわれることです。下谷神社のお祭りを皮切りに、下町の夏祭りが始まります。神田明神や三社祭など、5月から6月にかけて毎週のようにお祭りがあるという、祭り好きにはたまらないシーズンが訪れるのです。

 もう1つの特徴は、落語の常設小屋(ライブハウス)である〈寄席〉の発祥地であることです。社殿の手前に、〈寄席発祥之地〉と書かれた碑と、寄席を詠んだ正岡子規の句碑が建っています。
「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」
 寄席の発祥には諸説ありますが、関根黙庵の『講談落語今昔譚』には、寛政10年(1798)に三笑亭可楽が、下谷神社の境内で寄席興行を始めたと書かれています。

 また、特徴ではないかもしれませんが、社殿の天井には、画家の横山大観が手がけた雲龍図が描かれています。このデザインは、絵馬や御朱印帳の表紙にされているので、画伯の絵を身近に眺めることもできます。(つづく)

【makoto office 安原眞琴公式サイト】
http://www.makotooffice.net/

【イラストと地図:鈴木 透(すずき・とおる)】
1965年福島県生まれ。「釣りキチ三平」などを制作する矢口プロダクションを経てフリー。
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【やすはら・まこと】
1967年東京都生まれ。文学博士。専門は日本の中世・近世の文学、美術、文化、女性史。吉原文化の最後の継承者を5年間取材したドキュメンタリー映画「最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん―吉原最後の証言記録―」を2013年に発表。立教大学・法政大学・大正大学・東武カルチュアスクールなどで講師を務め、天台宗総合研究センター、日本時代劇研究所などの研究員でもある。NHKカルチャーラジオ「歴史再発見 芸者が支えた江戸の芸」を2016年に担当。著書に『「扇の草子」の研究――遊びの芸文』(ぺりかん社)、『超初心者のための落語入門』(主婦と生活社)、『東京の老舗を食べる』(亜紀書房)などがある。
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