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美しいくらし
東京ぶらり老舗散歩 江戸文化研究家
安原眞琴
第4回 5月のお江戸日本橋へ①
 5月といえば、東京では〈お祭り〉の季節! なかでも江戸の総鎮守とされる神田明神の〈神田祭〉は、東京を代表するお祭りです。将軍家も御覧になったことから〈天下祭〉と言われています。氏子町も、〈神田〉や〈日本橋〉など、すべて都心にあります。さて、「東京ぶらり老舗散歩」第4回では、この氏子町の中でも、都心のなかの都心〈日本橋〉を散歩します。もちろん御神輿も見られます。今年は〈本祭り〉なのでさぞ賑やかでしょう。その後は、老舗のお蕎麦屋さんで、美味しい名物蕎麦をいただきます。

東京の繁華街の元祖!

室町砂場(中央区日本橋室町)
 日本の首都は〈東京〉ですが、その中心はどこだったかご存知ですか? 今では、〈銀座〉〈新宿〉〈渋谷〉〈原宿〉など、たくさんの繁華街がありますが、実はこれらは〈ニュータウン〉で、江戸時代には〈日本橋〉だったのです。
 そもそも東京が今のような大都市になったのは、江戸時代からです。江戸は、徳川家が江戸城を中心にして創った総城下町です。現在の東京も、その江戸の町を土台にして創られています。

 城下町だった頃の江戸の町は、職業ごとに住む場所が決まっていました。第1は武家が住む〈武家地〉で、全体の約70%を占めていました。第2は寺社のある〈寺社地〉で15%、第3は庶民の住む〈町人地〉で15%でした。人口は、おおよそ武家が50万人、町人が50万人だったと言われています。そのため、おのずと町人は、長屋のような狭い家に住まざるを得ませんでした。

 では、その町人地はどこにあったのでしょうか? 天保14年(1843)に出版された「天保御江戸大絵図」で確かめてみましょう、そこには、江戸城を中心にして、現在のJR山手線という都心部をグルグル回っている鉄道の線路よりも、一回り大きい地域が描かれています。今では東京の範囲が、西東京と呼ばれるエリアまで拡大され、かなり広がりましたが、江戸時代にはこの地図に描かれているところまでが〈江戸〉でした。

「天保御江戸大絵図」
 さて、地図の色に注目しますと、およそ3色からなっています。〈白〉は武家地、〈赤〉は寺社地、〈灰〉は町人地を表しています。灰色の町人地が、新橋から神田にかけての、現在の〈中央通り〉沿いに集中しているのが分かりますでしょうか。
 そして、そのまん中に日本橋がありますね? そこが都心、つまり江戸の心臓部だったのです。街道(国道)の起点も、江戸時代から今に至るまで日本橋にありますし、〈東京の台所〉と言われる築地の元祖〈魚河岸〉もここにありました。言い換えれば、日本全国からヒトやモノが集まる場所だったのです。

 江戸から明治へと時代が変わると、東京の町はどんどん西洋化していきました。また、大正12年(1923)には関東大震災、昭和20年(1945)には東京大空襲があるなど、大きな天災や戦災により、その都度破壊と再建が繰り返されました。都心は、それらの変化にいち早く対応するのも特徴で、今も2020年の〈東京オリンピック〉開催に向けて再開発が進められています。
 おそらく、現在の工事中の都心を表面的に見ただけでは、江戸らしさを感じるのは難しいでしょう。そこで、約400年にわたる歴史が地層のように埋まっている日本橋を、想像力を働かせながら歩いてみることにしましょう。

石が伝える江戸百景

〈八ッ見の橋〉とも呼ばれていた一石橋
 散歩のスタート地点は〈東京駅〉です。駅自体、大規模なリニューアル工事が行なわれていて、ちょっと分かりにくくなっていますが、そのなかでは広々として分かりやすい〈日本橋口〉を出発点にしたいと思います。

 正面の道路を右に進むと、すぐに〈呉服橋の交差点〉に出ます。ここには、その名の通り、〈呉服橋〉という橋が架かっていました。また、橋のあったところは、今では〈外堀通り〉という道路になっていますが、かつては江戸城の〈外濠〉でした。

 この交差点を、橋脚の見える方に渡ると、〈一石橋〉に出ます。ここには、お濠と橋が残っています。この橋は〈八ッ見の橋〉とも呼ばれていて、歌川広重の「名所江戸百景」というシリーズものの浮世絵にも描かれています。
 名称の由来は、〈呉服橋〉〈鍛冶橋〉〈常盤橋〉〈日本橋〉〈江戸橋〉〈鉄瓶橋〉〈道三橋〉〈一石橋〉と、八つの橋を見ることができたからですが、今では常盤橋しか見られません。
 また、江戸時代には人々であふれていたようですが、今では、高速道路の出入口があるので、車こそ行き交うものの、人影はまばらです。かつての賑わいは、石碑で偲ぶしかありません。

 一石橋の〈親柱〉の脇に建つ「まよい子のしるべ」と彫られた石柱がそれです。迷子が出るほど賑わっていたのですね。その左右の面には「知らする方」「たずぬる方」と彫られていて、それぞれの面に迷子の名前や特徴などを書いた紙が貼られたそうです。
 
〈常盤橋〉も趣がある石橋です。橋のたもとには、日本経済の父と呼ばれる〈渋沢栄一の銅像〉が建っています。その周囲には、わずかに古い石垣も残っています。正確に言えば御門(ごもん)の跡です。この橋は、江戸城防備のための重要な門の一つだったので、橋だけではなく門が付いていたのです。ただし2017年春現在、この付近一帯が大々的な工事中です。
 この橋から中央通りに向かう道は、先ほどの歌川広重の浮世絵シリーズにも、「日本橋駿河町」と題して描かれています。この絵によれば、江戸時代には富士山も臨めたようです。

江戸の町の中心地だった中央通り
 実は、この道の周辺こそ江戸の中心地だったところです。ここには、今で言う大企業が軒を連ねていました。なかでも大きかったのは〈越後屋〉でした。いわゆる三井財閥の前身です。延宝元年(1673)に、家祖の三井高利が、江戸と京都に呉服店を開業したのが始まりで、その後、両替業や為替業なども手掛け、ますます発展していきました。
 
 〈越後屋〉は、明治以後、店舗と業種を西洋化・近代化させつつ、「三井本館」と「日本橋三越本店」と名称を変えて、今なお同じ場所で営業を続けています。ご存知の方も多いと思いますが、〈三越〉は、三井の〈三〉と越後屋の〈越〉を合わせたものです。
 いずれもモダンな近代建築で、文化財に指定されています。また、三井本館の裏手にある〈日本銀行〉も、明治期の貴重な建造物で、これまた文化財になっています。(つづく)

【makoto office 安原眞琴公式サイト】
http://www.makotooffice.net/

【イラストと地図:鈴木 透(すずき・とおる)】
1965年福島県生まれ。「釣りキチ三平」などを制作する矢口プロダクションを経てフリー。
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【やすはら・まこと】
1967年東京都生まれ。文学博士。専門は日本の中世・近世の文学、美術、文化、女性史。吉原文化の最後の継承者を5年間取材したドキュメンタリー映画「最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん―吉原最後の証言記録―」を2013年に発表。立教大学・法政大学・大正大学・東武カルチュアスクールなどで講師を務め、天台宗総合研究センター、日本時代劇研究所などの研究員でもある。NHKカルチャーラジオ「歴史再発見 芸者が支えた江戸の芸」を2016年に担当。著書に『「扇の草子」の研究――遊びの芸文』(ぺりかん社)、『超初心者のための落語入門』(主婦と生活社)、『東京の老舗を食べる』(亜紀書房)などがある。
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