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仲野マリ
第5回 女殺油地獄 犯罪被害者の叫びが聞こえる~お吉の物語~③
何の落ち度もないのに
 実はこの作品、発表当時の興業はまったく振るいませんでした。
「親の因果が子に報い」とか「廻る因果の糸車」などといった文句にもあるように、その身に起こる不幸には、何かしら自分の側にも原因があると考えられていた江戸時代。自分に落ち度がなければ親に、親になければ先祖にまで、因果関係を求めています。逆にいえば、どうにでも理屈をつけなければ、理不尽すぎる不幸を受け入れることなんかできない、ということなのかもしれません。

 ところがこのお話、お吉は何の罪もないのに殺されます。そこが同時代人には合点がいかなかったのではないでしょうか。
 良妻賢母で誰にでも親切にする心根。それらが場面場面で逆に災いし、気がつけば他人である与兵衛の金銭トラブルに巻き込まれてしまうお吉。情事の一つもないのに油まみれで死ななければならないなんて、あまりにもかわいそうすぎます。話の最後に与兵衛はつかまりますが、3人の子を残して死ぬ母の、無念を吹き飛ばすほどのカタルシスはありません。

 当時の観客にすれば、お吉が与兵衛と密通でもしてくれていたほうが、ずっとわかりやすかったことでしょう。実際、前述の「噂」のように、「実は二人は好き合っていた」「お吉が与兵衛をたぶらかした」というバージョンにアレンジしたものは、江戸時代もよく上演されていたようです。
 近松は、多くの人気作品を生み出してきた作家です。その近松がなぜ、晩年になって「当たりのセオリー」を敢えて外した作品を書いたのでしょう?

光市母子殺人事件を世間はどう見ていたか
 ここで思い出していただきたいのが、1999年4月14日、山口県光市で起こった光市母子殺害事件です。当時18歳だった少年が、主婦・本村弥生さん(当時28歳)を殺害、生後11カ月の娘も殺したうえ財布を窃盗したという事件は、容疑者が少年であることから実名報道の可否や、死刑が適用されるかが大きく取沙汰されました。
 被害者の夫・本村洋氏が被害者側の意見を当事者として積極的に公表し、その後「犯罪被害者の会」設立にも結びつく行動を開始したことで、私たちは「報道」と「事実」の乖離や、被害者の尊厳を守ることの難しさを深く考えさせられました。同時に、遺影を法廷に持ち込めるようになるなど、司法の場にも大きな変革をもたらしています。

 この事件の発生当初、私の疑問はまず「なぜ奥さんは少年を家に入れたか」でした。二人も人が亡くなったというのに、「知らない人を家に入れるはずがない」という思い込みが先に立ってしまい、かわいそうとか残忍とかの以前に「なぜ入れた?」が頭から離れなかったのです。
 実際には排水検査を装って家の中に入ったということですが、第一報ではそれは明らかではなく、「二人は顔見知りだった」などという、後で考えれば不確かで無責任な報道もありました。
 女の色気にシビアなのは、決して男だけではありません。もし、夫の本村さんが声を大にして事実を公表し、13年にも及ぶ法廷での闘いを続けていなければ、恥ずかしいことに私も、弥生さんという人を思い違いしたままだったかもしれません。

死んでいったものの代弁者として
「女殺油地獄」のお吉さんと、光市母子殺人事件の弥生さん。私には二人の悔しさが、重なって見えるのです。与兵衛という殺人者とその家族を描いた「女殺油地獄」ですが、脇役であるお吉の描かれ方に、実は重要なメッセ―ジがあるのではないでしょうか。

 2000年に出た光市母子殺人事件最初の判決文には、「(弥生さんには)何らの落ち度もなく、幸福な家庭を築いていた被害者らの無念さは筆舌に尽くしがたいものであり、遺族が本件各犯行によって被った悲嘆、怒り、絶望は、察するに余りある」というくだりがあります。
 お吉の「私は何にも悪いことをしていません!」という叫びこそ、近松がもっとも描きたかったことなのではないか、21世紀に本村さんが人生を賭けて世に問うた犯罪被害者の叫びを、18世紀、近松門左衛門は早すぎる傑作として世に遺したのではないかと思うのです。


(*)片岡仁左衛門が一世一代と銘打ち主演した2009年6月歌舞伎座さよなら公演の舞台を映像化したシネマ歌舞伎が、2月11日から17日まで全国で上映されます。
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/14/

(*)山口県光市母子殺害事件については、『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(門田隆将著・新潮社)をおすすめします。
 またこの本を原作に2010年、WOWOWが制作したTVドラマ「なぜ君は絶望と闘えたのか」(DVD発売・東映ビデオ)は、フィクションですが非常に優れた作品です。



【仲野マリの歌舞伎ビギナーズガイド】
http://kabukilecture.blog.jp/
【エンタメ水先案内人】
http://www.nakanomari.net

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【なかの・まり】
1958年東京都生まれ、早稲田大学第一文学部卒。演劇、映画ライター。歌舞伎・文楽をはじめ、ストレートプレイ、ミュージカル、バレエなど年100本以上の舞台を観劇、歌舞伎俳優や宝塚トップ、舞踊家、演出家、落語家、ピアニストほかアーティストのインタビューや劇評を書く。作品のテーマに踏み込みつつ観客の視点も重視したわかりやすい劇評に定評がある。2013年12月よりGINZA楽・学倶楽部で歌舞伎講座「女性の視点で読み直す歌舞伎」を開始。ほかに松竹シネマ歌舞伎の上映前解説など、歌舞伎を身近なエンタメとして楽しむためのビギナーズ向け講座多数。2001年第11回日本ダンス評論賞(財団法人日本舞台芸術振興会/新書館ダンスマガジン)佳作入賞。日本劇作家協会会員。
『歌舞伎彩歌』(衛星劇場での歌舞伎放送に合わせた作品紹介コラム)http://www.eigeki.com/special/column/kabukisaika_n01
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