珈琲を飲むことも淹れることも大好きで、いつしか焙煎教室へ通うまでに。
高校生の三女が二十歳を迎えたら、喫茶店(カフェというより、喫茶店というレトロな響きが好き)を開きたいと、ずっと思っていた。食品衛生責任者の資格もすでに取得済み。とは言え、いつか開けたらいいなぁと、小さな子が夢を見るようなふんわりとした想い。そんなふわふわとした夢が一気に輪郭を帯びたのは、今年のはじめのこと。
条件に見合う居抜き物件が出たと不動産屋さんから連絡があり、はやる気持ちを抑えながら、自転車をぐんぐん漕いで向かった。
前のオーナーがご高齢のため、店舗を手離す決断をしたそうで、できればスピーカーも受け継いでほしいとのこと。偶然にもわたしが一番好きなメーカーのスピーカーで、願ったり叶ったり。臨場感あふれるサウンドや、ずしりと響く低音に惹かれるのはもちろんだけど、実は、そのメーカーのシンプルなロゴがとても好き。音質とロゴは無関係だけど、人がなにかに惹かれる理由って、案外単純なことなのかもしれない。
狭い店内をうろうろと歩きながら迷っていると、不動産の方が「今日中に契約をすれば○円引き!」「引っ越し代が○%引き!」加えて「今ならノベルティも付けるから!」と早口でまくしたてる。
ワンピースを買うのとは桁が違うので即決ができないし、娘の成人式の晴れ姿を眺めてから、次の人生の扉を開けたい。とは言え、そんな感情論を伝えたところで、伝わるはずもなさそう。
「次の内覧予定も入っているから、決めるなら今!」と言われて「よし!今だ!」と士気が高まる方もいるはず。わたしは逆に気持ちがひゅうっと萎んでしまい、丁寧にお礼を伝えて家路へ向かった。
さっきはあんなに軽く感じたペダルなのに、パンクしているかのように重い。まるで、わたしの気持ちを表しているみたい。これでいいのかな? これでいいよね! 自問自答をしながら「いつか心から好きだと思える物件と出会えますように、できればスピーカー付きでね」なんて呟いた。
その半月後、誰もが予想をしていない出来事が日本を襲った。あの混沌とした重苦しい日々。眼に映るすべてのものの濃度が薄くなり、自分の中の歯車が少しずつずれていくようで、鬱々と過ごしていた。秋が深まり、ようやく収束に向かいそうで、ほおっと胸を撫で下ろしている。
ふと、あの物件はどうなったのか気になった。わたしが断った日の夕方、不動産屋さんから連絡があり、あのあとすぐに契約が決まってパスタのお店になったと聞いた。自粛期間で、営業がままならなかったんじゃないかと心配になる。どうか、あのスピーカーが抜群な音を響かせていますように。
今回のエッセイに「好き」という言葉が繰り返し出てくる。好きな人や物が多ければ多いほど、毎日の暮らしはきっと楽しくなるはず。こんな時代だからこそ、好きを大切に。そして、好きを味方に。(おわり)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
暮らしの中の“小さな幸せ”を高野優さんの漫画とエッセイでつづった全5回。その中には毎日を楽しくするヒントがいくつも散りばめられていたように思います。心地よい香りや、幸せを感じる味わい、元気づけてくれる音楽も。人生はそんな小さなことに支えられているのかもしれません。連載「おうちで旅気分」は残念ながらこれで最終回。またいつの日か「かもめの本棚」ですてきな旅をご一緒できることを願って……。読むだけで、ふわっと気持ちが明るく前向きになれる高野さんの作品を、これからも楽しみにしています。(編集部)高野優さんのオフィシャルブログ「釣りとJazzと着物があれば。」