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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第22回 解きほぐしを支えるもの(上) (小津夜景より)



 こんにちは。いまわたしは旧市街の、たった2部屋しかないシャルル・ネーグル写真美術館で天国に一番近いらしいチベットの空を眺め、その足で裁判所の広場にあるカフェに寄って、オレンジ色の庇の蔭でシトロンを飲んでいます。「オルフェオ」連続公演おつかれさまでした。新聞批評を拝見して、これは来年以降に欧州ツアーがあるかもしれないと期待しましたよ。いまごろは四旬節の演奏会に追われているころでしょうか。人口1700万人の国で、この時期だけでバッハの受難曲が数百回も演奏されるとは、日本におけるベートーヴェン「第九」公演のはるか上空をゆく、オランダの七不思議と言いたくなるほどの衝撃的なお話です。

 オランダの王立音楽院で体験なさったヴィオラ・ダ・ガンバの初レッスンのお話も、わかるわかると頷きながら読みました。音を楽しみ、その響きを慈しむことが「聞く」行為を一段高いところへと引き上げる――こうしたことは、もちろん日本にいるころからご存知だったのでしょうが、やはり環境が変わると感度も上がるせいか気づきの深さがまるで違ってきますよね。わたしも太極拳の師匠と出会った初日のレッスンで奇しくも似通った体験をしたことがあります。

 わたしが師匠と知り合ったのは初めてニースに遊んだときで、もう13年ほど前になります。そのころのわたしは別の拳法に夢中で、太極拳といういかにも万能っぽい体系にはあまり興味がなかった上、道場はそのとき滞在していたシェア・ハウスから片道1時間もかかる場所にあり、いまとなってはなぜ見学に行ったのかわかりません。ニース滞在中の暇つぶしにしようとでも思ったのでしょうか。で、道場に出かけ、師匠に訪問の理由を伝えて他の人たちの邪魔にならないようすみの方にいると、師匠が生徒たちに向かって「気の流れを感じてください」と言いました。これは練習中に必ず言われるといっていいくらいの、とりたてて珍しくない台詞です。が、これがわたしの耳にいきなり新鮮に響いた。というのも、そのとき師匠は「気を感じる」というのをécouter le chi(気を聞く)と表現したのです。

 「感じる」ではなく「聞く」。この表現の違いはささやかなようでいて、道場という空間において決定的な意味を持っていました。例えばわたしは日本にいるとき、自分の力で「無我」になるにはどうしたらいいのかわからなかった。つまり雑念をコントロールする技術を知らなかったのです。ところが外界、あるいは他者としての自分に耳を傾け、さらに呼吸や意識も委ねてしまうと、それだけで人は我を忘れることができる。しかもこのシンプルな無我のしくみは、驚くことに日頃絵を描いたり、楽器を奏でたり、誰かを愛したりするときのしくみとまったく一緒だったのでした。

 そういえば「感情を理解する」という表現はフランス語でécouter les émotions(感情を聞く)と言うんだったわ。そんなことを思いつつ、わたしは師匠の呼吸にゆっくりと付き従いました。窓の外からは託児所の屋上で遊ぶ子どもたちの声が聞こえ、坂を登ってゆくスクーターの排気音が聞こえ、いささか賑やかすぎるコマドリの会話が聞こえ、そして耳のすぐそばで自分の心臓の音が聞こえました。こうして書くとなんてことのない出来事ですけれど、とにかくこの日わたしは、無我とは何も考えないことでも何も感じないことでもなく、ただ世界に耳を傾け、意識を自分の外に置くことなのだといった発見を得たのです。

 思えば異国語の方が身体に響くという場面はめずらしくありません。日本語だと観念的に捉えてしまう内容が解きほぐされるからでしょう。もちろんひとつひとつの言葉の中にはそれ固有の歴史がありますから、言葉をまるごと呑み込むべき場面もあります。とはいえまた別の場面においては、中味を知らないままイメージだけを有り難がっていることも少なくない。と、ここで知人が教えてくれたアリストテレス『詩学』の言葉を引用したくなりました。ええと、確かこんな感じだったと思います。「作者とは、織り合わせと解きほぐしの調和をめざすべきである。だが多くの作者は、織り合わせはこと巧みだが、解きほぐしを支える力に欠ける」。

(つづく)




【小津夜景日記*フラワーズ・カンフー】https://yakeiozu.blogspot.com/
【ozuyakei】Instagram https://www.instagram.com/ozuyakei/

(写真提供:著者)

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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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