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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第19回 隠された接続詞(下) (須藤岳史より)
 ところで、この手紙を書いている現在、クラウディオ・モンテヴェルディのオペラ『オルフェオ』のツアーの真っ最中です。『オルフェオ』は(上演に耐えうる)最初のオペラであり、(オペラという言葉は使われず、favola in musica=「音楽による寓話」とモンテヴェルディは呼びました)様々な新しい音楽や演劇やバレエの形式のブリコラージュとなっています。多くのパートはモノディの作法で書かれています。モノディとは多声部が対等な存在として編み上げられた音楽である「ポリフォニー」への反動として生まれたもので、言葉のリズムに重きを置いたメロディと、コードネームが付与されたベースライン(いわゆる通奏低音というやつです)の二本の線で書かれています。

 今回の公演ではこの通奏低音のたった1本の線を、ヴィオラ・ダ・ガンバ3台(リローネを含む)、テオルボ3台(随所でルネッサンスギターへも持ち替え)、ルネッサンスハープ、バロックチェロ、大小のヴィオローネ各1台、トロンボーン、オルガン2台、チェンバロ2台という大所帯で、その組み合わせを1台のみの親密なものからTUTTI(総奏)まで様々に変化させながら演奏しています。

 ベースラインに付与された数字による和声表記(当時の習慣で当たり前とされていた箇所は空白となっていて、判断に迷うところにのみ表記が施されています)は、歌の声部とベースラインの空間のモデルとなっています。そして、その空間をどのように満たすかは、演奏者の裁量に任されています。与えられた和声のなかで、低音を弾いたり、ハーモニーをつけたり、対旋律や内声を見出して、さらにそれらの声部に装飾やデミニューション(雑にいうと1つの線を細かく分割していってメロディを生成することです)を即興で施したりして演奏をします。大所帯ですから、生み出された線が被ってしまうこともあります。ですから、リハーサルでは、それぞれが自由に創意を発揮しながら、なんとなくそれぞれのおおまかな居場所を見つけていく無言の作業をします。西洋のクラシック音楽というと、細部まで書き込まれた音楽というイメージがありますが、バロックまでの音楽は即興的な要素をふんだんに含んでいるのです。

 話が逸れてしまいましたが、メロディラインと数字付き低音の間にあるこの空白が、なんとなく「書かれていない接続詞」のように思えてくることがあります。書かれていない接続詞は、ある時には「でも」や「しかし」であり、「だから」「また」「それから」でありながらも、その機能は決して限定されることなく開かれています。そのため、聞き手の判断は常に留保されます。そこでは、あらゆる可能性に開かれた「見えない接続詞」が暗躍しているのです。

 音楽をたくさん演奏している期間、特に即興演奏が多くなる時期はなぜか言葉が遠ざかります。この時期は本を読んだり、文章を書いたりすることができません。これはどういうことなのかを自己分析するならば、「満ち足りている」ということなのかもしれません。逆に考えると、満ち足りていない時の欠落感、あるいは何らかの余剰的なものが、僕を文章に向かわせているのかもしれませんが、これはまた別のお話ということで。

 音楽の演奏においては、技術と音楽性が完全に釣り合っていることが大切だといつも思っています。音楽性が突出していても、それを実際の表現(と慣例に従って仮に呼んでおきます)へと落とし込めなければどうしようもないですし、反対に技術ばかりが目立ってしまうと、音楽は生命を失います。だから両者には絶妙なバランスが必要なのです。その平衡の上に音楽が宿ります。

 音楽と共に生きていくことにもまた、音楽との関係のメンテナンスが必要となってきます。音楽が何かのための手段となってしまうと、遅かれ早かれ人は音楽から立ち去ることになります(もちろんその関係をごまかしながら続けていくことができる人もいるのでしょうが)。

 即興演奏というのは、つまるところ、習得した様々な断片を瞬時に変形して、最もふさわしい形で次々と紡ぎ、織り合わせていくことです。そこではかつて習得した何かが、フロー状態において、思考を経ることなく、展開されていきます。即興演奏には、書いてある音楽を正確になぞる時(「書いてある音楽」という表現もまた不正確なのですが、とりあえず対比としてそう書いておきます)とは異なる一体感とライブ感があります。コントロールを超えて、自らが思いがけなく発してしまったものに驚いたりしながら、生きているこの瞬間をまるっとそのまま愉しんでいるような気分になります。

 「すべての芸術は音楽の状態を憧れる」というヴィクトリア朝の文人、ウォルター・ペイターの有名な言葉があります。これは「音楽においては内容と形式が完璧に一致している」ということをさしての言葉なのですが、音楽の中にとどまらず、音楽と人生との関係にもこの関係は相似的に適用可能だと思います。

 この均衡状態こそが、あなたのお手紙あった「物語を失う地平線」で発見する世界に似ているような気がしてなりません。そこにはありのままに世界を愉しみ、世界と一体になる喜びがあります。

須藤岳史拝



【須藤岳史 Twitter】
https://twitter.com/Artssoy

(写真提供:著者)

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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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