× close

お問い合せ

かもめの本棚に関するお問い合せは、下記メールアドレスで受けつけております。
kamome@tokaiedu.co.jp

かもめの本棚 online
トップページ かもめの本棚とは コンテンツ一覧 新刊・既刊案内 お問い合せ
LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第14回 文(ふみ)と不死(上)  (小津夜景より)



 前略、思いがけない追伸をありがとうございます。記憶にあるかぎりすべての手紙が保管されているなんて夢みたいな話ですね。私はわりとさいきんまで、つながった痕跡を残すというのが苦手で、誰かに手紙を出すことも、誰かの手紙をとっておくこともなかったので、なんだかとても眩しかったです。

 つながることと、その痕跡。それついての私の感覚に異変が起きたのは、ミディ・ピレネーからコート・ダジュールに移り住んだ日のことでした。その日はトゥールーズの友人が、私たち夫婦を家財道具ごとニースまで運ぶよというのでありがたくその申し出を受け、友人の所有する中古のカミオネットにありとあらゆる荷物をつめこんで約600キロにおよぶ高速道路の旅をしたのですけれど、トゥールーズを朝に発ち、休憩をはさみつつカミオネットを走らせて、ついに空の青と日の赤とがつかのまのグラデーションを描くゆうぐれのニース海岸と遭遇したときの、あの大往生したような妙な心地は生涯忘れないでしょう。さざなみが螺鈿となって艶めくようすや、老神となって皺めくようす、また何キロにもわたって水平線に広がる蜃気楼の陸地や古城に目をうばわれながら、ああ、死ぬとはこういうことなのか、と納得してしまったほどその光景は楽園そのものでした。と同時に、私はこうも自問したのです「ところで、自分はこの楽園にいつまでいられるだろう?」。

 私は、いま見ているこの海がかつて見た海になる日を、そっと――やがて捨てられるであろう小さな硝子のビーカーに、少しずつ時間が、層をなして沈殿してゆくさまを見届けるように――想像してみました。するとこれまで「いま」だけを生き、「かつて」や「いつか」を薄遇してきた私の中にある感覚が萌したのがわかったのです。

 この体験のあと、私はインターネットをしたり、携帯電話をもったりと、つながりの痕跡を残すいとなみに、少しずつ自分を差し向けるようになりました。写真もそうで、ある夏、カンヌ城塞までの坂道を夫とのぼっていると、急な曲がり角に一本の夾竹桃が植わっていました。夾竹桃はちょうど花盛りらしく、なんとはなしに樹下で憩っていたところ、たまたまそこを通りかかった婦人が私たちにこうたずねました。

「カンヌには観光でいらしたんですか」
「はい」
「では写真をとってあげましょう。よい季節ですから」

 夫の携帯を受けとった婦人は私たちをカメラに収め、すぐに携帯を返してくれました。画面を覗きこむと、アジア人の男女が写っていました。それは知っているような、知らないような、ふしぎな佇まいでしたが、そう感じたのはたぶん、私たち夫婦が一緒に収まった初めての写真だったからなのでした。

 思い出話はこのくらいにして、今日は私も手紙について書こうと思います。むかし中国では反古のことを惜字紙と呼び、それ専用の焼却炉で焼く習慣がありました。この焼却炉の名称は、惜字楼、惜字炉、惜字塔、焚字庫、字庫、焚紙楼、文風塔、文峰塔、敬聖亭、聖蹟亭、敬字亭などいろんなヴァリエーションが存在しますが、いずれにも共通して感じられるのは反古への愛惜です。これまでたくさんの文字を反古同然に捨ててきた私は、この愛惜という感情に自分なりの関心を抱いており、とくに手紙については書くことのなかでも特別なものとして、その意味についてあれこれ空想してきました。

 たとえば、あなたからの長い追伸を読んでいて、私は惜字楼でお別れしたあなたの分身が、ふたたび目の前にあらわれたような心地になったのですが、この「失われた手紙はいかにしてよみがえるのか」などはちょうどよい話題かもしれません。

追伸の明るい雨をありがとう  普川素床

 右の川柳では〈明るい雨〉が誰かからの追伸であるとされ、つまり「手紙はよみがえったものの文字のすがたをしていなかった」という状況が描かれています。で、これを読むと私は「わあ。追伸が届いてよかったね」とか「天気雨というのは、光のカンヴァスに描かれる、文字ならざる筆跡だったのか」とか「ふむ。カルティエ=ブレッソンっぽくいえば、天気雨は決定的(decisive)かつ逃げ去る(à la sauvette)イマージュだね」などと思いつつ、ふと、この句の人物が誰かに対して〈ありがとう〉と語りかけながらも、この〈ありがとう〉に対する相手からの復信はない、この天気雨こそが本当に最後の手紙なのだと覚悟していそうな雰囲気が気にかかります。「もしかするとこの人は、相手への情をきっぱり断つために、あえて〈明るい雨〉を追伸として受けとめたのではないか」と想像してしまうのです。

 ちなみに私自身は、何かと出会い「これは自分宛ての手紙(のようなもの)だ」と思うことがありません。その手の状況に陥った場合は、つながる感覚よりも、むしろはぐれる感覚を感じる性分のようです。ただし、そんな私も俳句を書くときはどういうわけか平然と「あなた」に宛てて――この「あなた」がいったいどこの誰なのか皆目わからないまま――書いているのですから、私の孤独癖なんてものはご都合主義で、嘘つきで、これっぽっちも信用できないのでした。

(つづく)




【小津夜景日記*フラワーズ・カンフー】
https://yakeiozu.blogspot.com/

(写真提供:著者)

ページの先頭へもどる
【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
新刊案内