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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第13回 日曜日の午後に軽い手紙を書こうとする試み(下) (須藤岳史より)


 届いた手紙、届かなかった手紙、届くかもしれない手紙、そして誤配送された手紙。手紙には色々なエピソードがつきものですが、自分宛てに書かれたわけでもないのに、なぜか自分宛てに書かれたような気になってしまう手紙(のようなもの)ってありませんか? 詩や小説や絵画、音楽や映画。きっと誰でもそんな作品を一つ二つ心の内に秘めているのではないでしょうか? 個人的には例えばゴダールのいくつかの映画、あるいはサント=コロンブやフランソワ・クープランの小曲、ポンペイのいくつかの古いモザイク、パスカル・キニャールの言葉の断片。そこには個人的な興味の重なりがまずあります。そして、僕を引きつけるのは、その興味の枠のようなものに対する余剰や欠落の独特な距離です。この距離の感覚がなにやら決定的な要素のような気がします。

 それらの作品は、それほど多くの人を惹きつけるものではないかもしれません。しかし、作品でも思想でも、大切な何かというものは、自分とぴったりと重なる何かなのだと思います。それはいつもひとりからひとりへと手渡されるものです。だから、そういう作品は広くではなく深く誰かのもとに届きます。ふと思い出した一節を引いておきます。


「一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない。」(石原吉郎『石原吉郎詩文集』(講談社)より)


 勝手に「これは自分宛てに書かれたものだ!」と感じてしまう本などについて思いを巡らせる時、そもそも手紙(作品)を受け取るというのは、どういうことなのかについて考えざるを得ません。

 結論だけ言うと、手紙(作品)を受け取ったという感覚は常に後付けの理由であるということです。そこには「何かを手渡された感覚」が常に先行していて、手紙が来たから何かを受け取ったというのではく、何かを受け取ったのちに「ああ、これは自分宛ての手紙だったのだな」と認識するという心の働きがいつもそこにはあるような気がしてなりません。

 何かを受け取ったと感じることには二つの要素が必要です。一つは、受け取り手の中にある言葉にならなかった何かが(広義の)言葉として書かれることであり、もう一つは、その言語化によって、一瞬の繋がりが生まれることです。そのときはじめて「手紙の受け取り」が成立するのかもしれません。

 考えてみれば、すべての創造行為は受け継いだ何かを形を変えて繋いでゆくことに他なりません。言葉でさえ、自分のものではなく他者のものです(だからコミュニケーションが図れる)。正統も異端も、普通も奇形も、何らかの大きな系譜にやがて飲み込まれていく。時を経てしだいに作者の影は薄まり、作品が自在に動き始める。すべての創造行為は、どちらかというと間接的にしかし確実に届く方法で受け渡されるなにかにほぼ全てを負っている。そんな絵が思い浮かんできます。

 この直系ではない受け取りについては、塚本邦雄が書き残した「真の「系譜」とは、恐らく、父子相伝、師弟授受の形式からは大きく逸れた次元で、ひそかに、確実に創られ、書かれてゆくものではあるまいか」という言葉を思い出します。もちろんここには作品を通しての私淑も含まれます。いや、そういう私淑のかたちこそが、唯一の継承の作法なのかもしれません。

 なんだかよくわからない、しかも当初の目論見から外れて、あまり軽くない手紙になってしまいましたが、最後に埋め合わせとして「軽い手紙」がキーワードとなっている詩を引用しておきます。詩人の例えはなんとも不思議なものなのですが、なぜかすとんと腑に落ちてしまう一節です。軽やかな良き週末をお過ごしください。


「日曜日の午後の軽い手紙を期待するといふことは牝鹿の頭の先のリボンが風になぶられる時のリズムを愛するやうに楽しい。」(左川ちか「三原色の作文」より)


草々




【須藤岳史 Twitter】
https://twitter.com/Artssoy

(写真提供:著者)

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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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