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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第12回 この地上で(上) (須藤岳史より)


 お手紙ありがとうございます。ハーグはすっかり秋の雰囲気です。この地の秋はいつも何の前触れもなしにやってきます。光がまるでフェルメールの絵画のように和らぎ、空気の質感も変わります。

 ヴィオラ・ダ・ガンバは温度や湿度の影響を受けやすいため、季節や日々の移ろいは音色の穏やかなグラデーションして感じられるものなのですが、秋の訪れはいつも唐突で、ある日をさかいにがらりと楽器の響きが変わります。春から初夏にかけての空気が連れてくる音はより肉感的ですが、秋の空気を震わす音はずっと透明で軽やかで、まるで生まれたての命を柔らかな布で包んだような質感を持っています。

 このところ身辺の事情により、あまり外出をせずに家で過ごす日々が続いています。外国で暮らすと、いくらその言語に熟達しても、周辺の言語がすうっと引いていき背景音となってしまうような感覚を多くの人が経験するようですが、こうして家に籠っていると、その働きがより強まり、同時に母国語である日本語への注意が研ぎ澄まされていくような感じがします。

 こんな話をするのは、あなたのお手紙にあった風土の話、そして母国語の失調の話を思い出したからです。

 たまに日本に帰ると、母国語で繰り広げられる情報が直接あるいはバックグラウンドでどんどん処理されていく感覚を覚えます。そういう時、逆にオランダでの日常がどれほど周囲の言語から見放されてしまった生活であるのかを、まざまざと思い知らされます。

 言うまでもないですが、風土としての言葉は、その土地全体が生成する感覚や情動、そしてイメージと結びついています。だから外国で母国語を操っていると、なにやら風土からはぐれてしまった、迷子のような心細さが生まれてきます。自分の経験と重ね合わせてみると、あなたのお手紙にあった崎原風子の失語と失律も、そんな言語の迷子の感覚がもたらしたもののような気がしてやみません。この感覚は、風土の現象としての言葉を、逆に風土を現象させるために使っていく時の、摩擦熱がもたらすものなのかもしれません。

 風土と言葉の結びつきというと、ヨシフ・ブロツキーの一節をいつも思い出します。


 「その夜は強い風が吹いていた。なにに目を留めたというわけでもないのに、突然恐ろしいほどの幸福感につつまれた。ぼくにとっては「幸せ」と同じ意味をもつ、凍った藻の匂いを吸いこんだのだ。ある人にとってそれは刈り取ったばかりの草、あるいは干し草の匂いかもしれない。また別の人にとってはクリスマスの樅の木やオレンジの香りかもしれない。ぼくにとってそれは凍った藻の匂いだ――その言葉の結合から生まれる擬声音的な響きのせいだろうか(ロシア語で、藻はあの素晴らしいVodorosliヴォドロスリという言葉)、あるいはこの言葉に、微妙な不調和と秘密の水底のドラマを暗示する何かがあるためでもあろうか。人はある要素の中に、自分自身の姿を見つけることがある。」
(ヨシフ・ブロツキー著/金関寿夫訳『ヴェネチア 水の迷宮の夢』(集英社)より)


 ロシア語話者でもなく、その言葉を育んだ土地からも遠い地平にいる僕は、ブロツキーが「ヴォドロスリ」という言葉から想起する複合的なイメージを共有できません。ですが、その時、排除された者さえ逆説的に自分自身の姿を見出すことができます。私はそこに属していないのだと。あるいはかの地では永遠に旅人であることが宿命づけられているのだと。

(つづく)




【須藤岳史 Twitter】
https://twitter.com/Artssoy

(写真提供:著者)

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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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