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LETTERS 古典と古楽をめぐる対話
俳人 × 音楽家
小津夜景 × 須藤岳史
第10回 片隅と世界と(上) (須藤岳史より)


 こんにちは。

 今日は旅先からこの手紙を書いています。
 時差のある場所へ飛行機で移動すると、世界から一度切り離されてしまったかのような不思議な感覚を覚えます。前回のお手紙に「歩行による距離の感覚はそのまま時間の感覚となる」と書きましたが、飛行機で夜を乗り継ぎながら別の場所へと移動すると、途中の地理的な緩やかなつながりの欠落のせいでしょうか、なんだか収まりの悪い気分になってしまいます。世界というのは場所やら昼夜の時間の流れやらが渾然となって立ち上がる認識の場なのかもしれませんね。

 イヴ・クラインの青、そして江戸時代の世界の語のお話、楽しく拝読しました。

 イヴ・クラインが芸術の灰として青を選んだこと、とても素敵です。多くの芸術家が青をメランコリックで深いものとして捉えていることにも興味が湧きます。

 そういえばアウラを彷彿させるこんな詩の一節がありました。

さながら星の運命の様に 君のリンゴも名前を忘れただらう
完結したものは名前を持たない 再び現実に復帰した 夢想の上を行く蒼い透明だ
(安部公房「リンゴの実」より)

 リンゴといえば赤や緑ですが、その存在が一度消えて完結した後に帰ってくるのが蒼い透明であるというのは不思議です。そして、その蒼い透明のアウラから私たちが思い出すのは、名前さえも失ったはずの元のリンゴです。ここでも往くことと還ることをつないでいるのは蒼いアウラです。

 また「存在が消えた後に残る深い青色の影」と聞いて、この一節を思い出しました。

 単純なことは象徴に近づくことだ。「あおい」と云えばあらゆる深さの青さを意味するから、結局一番多くの青さだ。つまり内容がたっぷりなのだ。言葉をかさねることは限定していく事だから本当はかさねるほど狭くなっていくのだ。(永瀬清子)

 「あおいかげ」は青も蒼も碧もそしてその他のすべての「あお」を含みます。「あおい」という3つの母音の緩やかな繋がりは、それを発する身体にしなやかで深い運動をもたらします。言葉は意味の幅が広いほど、そのグラデーションが豊かなほどに滋味を増します。言葉の意味の限定をできるだけ避けて、受け取り手に解釈を委ねてしまうというのは勇気のいることですが、そのときはじめて言葉は自由に動き始めるのかもしれません。

 存在を委ねられた言葉は、存在自体が消え去った後にも飛翔を続けます。言葉に乗せられた意味や音は言葉がその存在を託されたものがある方向を仄めかすアウラだと考えることもできますね。

 突き詰めて言うと井筒俊彦が書いたように「存在とはコトバである」(『意識と本質』)といえるかもしれません。

 ここで井筒が使う片仮名の「コトバ」には言語のみに留まらず、色や音、あるいやダンスやあらゆる表現も含まれます。存在を文節し、その上でまた統合していく働きのダイナミズムそのものがコトバであると僕は考えます。そこにあるのは限りない意味文節でも多を一へと収斂する包括的な解釈でもなく、ただただコトバによって生み出される「運動」なのだと思います。

 音もまた、空気、そしてこころを震わす運動です。音楽が言葉と異なる部分は、先に引いた永瀬清子が言う限定の作用とは反対に、あるいは悠久の意味やメタファーの堆積である文芸ともまたちょっと違う、楽譜以前にあった音楽そのものを解放してゆく営みのような気がしてなりません。

 演奏をするときは楽譜に残された痕跡、そして行間を読み取った上で、いろいろな方向から音楽の形を見つけようと試みます。
 同じ曲の演奏を何度も繰り返すことは、元にあったものをさらに限定し、より正確な形へと彫琢することではなく、演奏されるたびに、元にあった音楽そのものを、できることならその音楽が書かれた瞬間のように生み出すという一回性の祝福の儀式なのです。これもまたあなたのいう「回帰の中の一回性」ですね。

(つづく)



【須藤岳史 Twitter】
https://twitter.com/Artssoy

(写真提供:著者)


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【おづ・やけい × すどう・たけし】
◆小津夜景◆1973年北海道生まれ。句集に『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)。翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。フランス・ニース在住。

◆須藤岳史◆1977年茨城県生まれ。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ・ハーグ在住。
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